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協力
アジア太平洋地域における
医療制度の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる報告書
1© The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
目次
本報告書について	 2
研究の概要	 3
長寿社会の実現のために	 6
医療負担	 7
疫学的転換	 7
非感染症(NCD)の増加	 8
NCD の主要リスク要因	 9
感染症-結核	 12
精神疾患:長く放置されてきた NCD が今注目されています	 14
好ましい状態とは	 16
予防策	 16
医療アクセス	 16
患者中心の医療	 16
プライマリーケアの重点化	 17
NCD 対策を超えて	 18
最も変化を必要とする地域	 18
オーストラリア	 18
中国	 19
インド	 20
日本	 21
韓国	 23
実例に見られる変化	 25
有効な予防策	 25
コミュニティへの拡大(韓国)	 25
たばこ規制(オーストラリア)	 25
国民皆保険の推進(中国)	 27
患者による自己管理を中心とした医療	 28
革新的な情報通信技術の活用	 29
ビッグデータの活用(日本)	 29
ポイント・オブ・ケア診断(インド)	 30
医療の再構築	 30
介護保険制度(韓国)	 31
社会保健活動家(インド)	 31
結論	 33
今後の展望	 33
注	 35
2 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
本報告書に
ついて
欧州とは異なり、先進国、今後成長の可能性がある途上国、
近年成長目覚ましい新興国など、政治的・経済的背景が異
なる国々が混在するアジア太平洋地域では、医療制度に対
するアプローチも国ごとに異なっているのが特徴です。そ
のためこの地域は、国によって差はあるものの、疫学的に
は転換期を迎えており、各国内の医療負担の中心が感染症
から非感染症(NCD)に移りつつあります。
本報告書(アジア太平洋地域における医療の展望・オース
トラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題)は、
アジア太平洋地域における疾病負担に起因する課題等につ
いて比較、検討するために、エコノミスト・インテリジェンス・
ユニット(EIU)がヤンセンの協賛の下で作成したものです。
また本報告書では、感染症および非感染症患者へより良い
支援を行うために、これら5ヶ国で共有可能な最善の患者
支援策を明らかにすることも目指しています。
本報告書は以下の医療関係者ならびに専門家の協力の下、
徹底した机上調査とインタビューにより作成されました。
Mohammed Ali 助教授、エモリー大学ロリンス公衆衛生大
学院、国際医療学部ヒューバートデパートメント
Sanchia Aranda 教授、国際対がん連合次期会長
Malcolm Battersby 教授、フリンダース大学、人間行動学
および保健研究ユニット部長
Christine Bennett 教授、ノートルダム大学医学部長
Juliana Chan 教授、アジア糖尿病財団 CEO
Changbae Chun 氏、韓国国際保健医療財団事務局長
岩本愛吉教授、日本エイズ学会会長
Lixin Jiang 教授、北京、国家心血管病センター
Blessina Kumar 氏、結核対策に関わる国際市民団体会長
Vivian Lin 博士、WHO 西太平洋地域保健開発部長
Gordon Liu 教授、北京大学国家開発学院、経済学教授;
北京大学国家医療経済研究センター所長
Chee Ng 教授、メルボルン大学、アジアオーストラリア・
メンタルヘルス部長
Preetha Reddy 博士、アポロ病院グループ専務理事
Srinath Reddy 博士、インド公衆衛生基金理事長
Shaukat Sadikot 博士、国際糖尿病財団次期会長
渋谷健司、東京大学国際保健政策学教室教授
Kin-ping Tsang、国際患者団体連合会長
本報告書は Paul Kielstra が執筆、Charles Ross が編集し
EIU のヘルスケアビジネス部門である Bazian 社の Elly
O'Brien が研究補佐を担当しました。この場をお借りして、
本報告書作成にあたって取材協力をいただいた皆様にお
礼を申し上げます。
3© The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
研究の
概要
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の
医療はこの 20 年間で著しく改善され、これら
5ヵ国では平均寿命も大きく伸びています。と
はいえ、保健医療を取り巻く環境は常に流動
的で、各国に課題をもたらしているリスクは変
化し続けています。本報告書では、これら5
カ国が現在直面している、または将来直面す
るであろう疾患、ならびにその対策としてどう
いった医療制度を採用しているかを明らかにし
ます。主な見解は以下の通りです。
非感染症(NCD)は、現段階ですでにこれら 5ヵ
国における医療負担の大部分を占めています。
従来、感染症は途上国の、非感染症は先進国
の問題とされてきました。日本、オーストラリア、
韓国はかなり以前に疫学的な転換期を迎え、
NCD が医療負担の大部分を占めるようになっ
ていましたが、近年、中国でもそれと同様の
傾向が見られるようになり、2010 年には中国
における死因の 85% が NCD となりました。ま
たインドでも死因の大半(53%)が NCDとなり、
その割合は今後増加すると見られています。
いずれの国においても、感染症は依然として
潜在的な脅威であり、インドや中国の医療制
度にとっては現在進行形の重大な課題である
と言えます。とはいえ、医療負担の大部分は
NCD であり、今後もその負担は増加するとみ
られています。
これら5ヵ国における特定の NCD の影響は様々
で、その悪影響を最も受けているのが中国やイ
ンドです。NCD の増加要因リスクとしては、加
齢、喫煙や不健康な食習慣、運動不足、環境
汚染、都市化などが挙げられます。ただしこれ
らのリスク強度は各国間で著しく異なるため、
問題となる NCD の種類も国ごとに大きく異な
ります。例えば東アジアでは、塩分の過剰摂
取によって脳卒中の発現件数が増加していま
すが、オーストラリアでは過剰なカロリー摂取
によって、心臓疾患がより大きな問題となって
います。また中国やインドでは、大気汚染によっ
て慢性閉塞性肺疾患(COPD)や肺がんの発
現率が急増しています。現在途上国が抱える
能動的リスク、受動的リスクによる代償は、先
進国が直面するそれよりも重く、WHO によると、
韓国、日本、オーストラリアでは、30 歳~ 70
歳の人が癌、心臓病、糖尿病、および COPD
などの要因により死亡する確率はわずか 9%
強ですが、中国では 19%、インドでは 26%
にもなります。
精神疾患が医療負担の一部を占めていることは
ほとんど認識されていません。精神疾患は重大
な NCD の 1 つですが、直接の死因となること
が非常に少ないため、死亡に関するデータか
らは精神疾患による影響が見えにくくなる傾向
があります。しかし障害生存年数の合計で考え
ると、医療負担は大きく、全体の 20% ~ 30%
を占めます。精神疾患を有する患者向けのサー
ビスの提供は充実しているとは言えません。中
国やインドではこの分野の改革が始まっていま
すが、医療従事者の数やインフラ整備の状況
4 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
は、患者のニーズを満たしているとは言えませ
ん。日本や韓国では、現在のベストプラクティ
スとされている地域社会ベースのケアではな
く、病院のみで行う治療が依然として主流です。
この分野に関してはオーストラリアが一歩先を
行っていますが、道半ばというところです。
NCD の対策として、患者を中心とした、利用し
やすい医療制度の設計が必要とされています。
医療制度の多くは救急治療のために開発さ
れ、現在もそれに適した制度設計となってい
ます。しかし現在の医学的理解においては、
NCD の多くは長期的な管理を必要とする慢性
度の高い疾患です。そのための医療制度に求
められているのは、費用対効果の高い予防策
を適切に活用すること(NCD の多くは予防可
能なため)、医療制度を利用しやすくすること
で、より継続的なケアが行き届くようにするこ
と、患者中心のケアを提供すること。つまり患
者が医師の指示を仰ぐのではなく、自ら体調
を管理できるようにするために、医療従事者
は患者を支援する必要があります。また、制
度を統合することで、患者個人のニーズに沿っ
た、カスタマイズされた治療(通常はプライ
マリーケアに重点を置くことで最も効果が上が
る)が提供できるようにすることも必要です。
こうした医療制度は NCD 対策だけではなく、
結核や HIV などといった感染症に特化したケ
アにも役立ちます
今回の研究では、こうした理想に適う医療制度
は確認できていません。また一部には、医療
負担の現状に対して不適当であり、憂慮され
るべき制度も見受けられます。各国の政策に
は弱点があります。
l	 オーストラリア-財政的には堅調な医療制
度ではありますが、従来の医療従事者に焦点
を当てた制度ではなく、患者を中心とした制
度への統合を図る必要があります。現在の制
度は複雑で、患者は活用が難しいと感じてい
ます。
l	 中国-これまでのところ、国内の医療制度
改革は不調であり、患者中心の、統合的で利
用しやすい医療制度の確立には至っていませ
ん。病院での診察は、せわしなく働くスタッフ
との簡単なやり取りに終始しがちです。さらに、
依然として医療費は高く、医療に対する不満は
患者と医師の信頼関係に悪影響を及ぼしてお
り、中国人の 3 分の 2 は「医師の専門的意見
を信頼していない」という事態にまで至ってい
ます。
l	 インド-依然として救急医療に焦点を当て
た制度設計となっており、保健省でさえ NCD
対策は「初期段階」にあるとの認識を示して
います。また、高額の医療費によって、国民
の多くは通常の医療を受けることが困難な状
態です。こうした要素から、長期的なケアを効
果的に行うことが非常に難しくなっています。
今回のインタビュー回答者の 1 人は、この国
の 6200 万人にも上る糖尿病患者の半数は、
自分が糖尿病に罹患していることすら気づいて
いないと指摘します。
l	 日本-日本の医療制度には多くの長所があ
りますが、医師を頂点とした、病院における
治療に重点を置いた制度設計で、プライマリー
ケアの役割には重きが置かれていません。そ
の結果、提供される医療は統合性に欠けるも
のとなり、医師や専門家が不足しているため、
患者の待ち時間ばかりが長くなり、診察時間は
ごく短時間という状態です。また、現行の医療
制度では、財政難に苦しむ国が制度維持の財
源負担を求められています。こうした状態で今
後制度を維持し続けられるのかという点も、議
論の余地があるところです。
l	 韓国-ここ数十年で飛躍的な改革を遂げた
韓国の医療制度ですが、プライマリーケアが
不十分であることや、病院を過度に重視した
制度、医師不足など、日本と共通する欠点も
抱えています。医療の質により重点を置く必要
がありますが、精神疾患の患者を対象とした
制度等は、そのニーズに照らして特に手薄に
なっていると言えます。
効果的な変化に向けた大小の取り組み。完璧
な医療制度を作ることは容易ではありません
が、本研究の調査対象国における様々な取り
組みから、多くの重要分野で変化が可能であ
ることが明らかにされています。
l	 予防策-効果的な予防策は人々の賛同が
得られるのはもちろんですが、健康的な選択
5© The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
がしやすくなる状況をも作り出します。このよ
うな状況は、様々な段階を経て作り出すことが
できます。韓国の江東区では、医療施設では
なく地域を基盤とした保健相談センターに多く
の市民が集まり、市民の健康に好ましい影響
を与えていることが、各種指標から明らかに
なっています。国レベルでは、オーストラリア
の禁煙政策が挙げられます。教育、規制、課
税対策を組み合わせて、一貫した活動を何十
年も継続した結果、1970 年代半ばには 38%
だった喫煙率が現在は 13% に減少しています。
l	 ユニバーサルアクセス(機会均等)-前述
の通り、中国における医療制度改革には大き
な弱点がありますが、成功例がないというと語
弊があります。医療保険の大幅な拡大は医療
施設の利用増加につながり、ワクチン接種や
妊産婦のケアなどといった、基本的な医療サー
ビスが拡充されました。
l	 患者中心主義-オーストラリアのフリンダー
ス医療センターが作成した慢性疾患重症化予
防プログラム(The Flinders Program)によって、
医師 ‐ 患者間の信頼関係の構築を含む自己管
理支援システムが形成され、患者中心の統合
的な医療という理想の実現に向かっています。
初期に行われた研究からは、医療行為の成果
に改善もみられています。
l	 技術-情報通信技術改革は、医療サービ
スの提供にも大きなイノベーションもたらして
います。日本では成功事例の理解を深めるた
め、外科医や糖尿病専門医はビッグデータを
活用しています。この分野でのパイオニアであ
る心臓外科医は 10 年以上にわたってデータ活
用の成果を目にしてきました。IT の利用は富
裕国に限定されるものではありません。インド
では、ポイント・オブ・ケア(POC)デバイス
の 1 つである Swasthya Slate の利用により、
コミュニティの保健師が現場で 33 種類に及ぶ
各種検査を実施し、必要に応じてそれらのデー
タを専門医に転送できるようになりました。
l	 医療の再構築- NCD 関連疾患の治療に用
いられる、医師による病院中心の医療費が高
額すぎる場合、代替手段としてどういったもの
が考えられるでしょうか?韓国では長期介護保
険事業によって、数年前から補助金付きのソー
シャルケアサービスを高齢者に提供しており、
これによって社会的入院(他に望ましい方法
が見つからないことから、高齢者の長期入院
が続く状態)の数が減少する可能性が示され
ています。インドでは、社会保健活動家(ASHA)
プログラムによって、農村地域で活動する
900,000 名ものコミュニティの保健師のトレー
ニングが行われました。特に精神疾患や小児
医療で成果を上げています。
6 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
長寿社会の実現のために
1
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の
各医療制度について、その国の国民の医療
ニーズへの対応力を評価する際は、まず初め
に、各国が抱える問題は程度の差こそあれ失
敗例ではなく成功例に起因していることを認識
する必要があります。
平均寿命だけで評価した場合、これら 5ヵ国
では 1990 年から 2013 年にかけて、死亡率が
著しく改善していることがわかります。インド
や中国、韓国における平均寿命の増加率は国
際平均値を上回り、これら 3ヵ国ではこの期間
中に毎年 4 ~ 5 か月寿命が延びています。日
本とオーストラリアにおける延びは国際平均値
を下回っていますが、この 2ヵ国はそれぞれ
世界第 1 位と第 3 位の長寿国であり、寿命の
増加が緩やかなのは必然的なことといえます。
(図 1)
寿命の延びはすべての国に共通していますが、
その要因は異なります。インドにおける寿命の
延びは、急性感染症(特に下痢や下気道感染
症など)や、新生児期の障害への対策に由来
しており、1990 年以降の平均寿命の延びの半
分以上は、これら 2 つの対策の成果によるも
のです。中国では、感染症や慢性疾患、NCD
への対策、特に心血管疾患や慢性呼吸器疾患
対策の充実によって寿命が延びています。本
研究の調査対象国のうち、経済発展が進んで
いる 3ヵ国については様相が異なり、心血管
疾患や癌などといった NCD 対策がほとんどで、
これらの国々での平均寿命の延びの半分以上
はこうした対策によるものであるという説明が
可能です。
この他にも平均寿命の数値は、こうした国々が
直面している医療負担についての理解を助け
るという側面も持っています。これら 5 カ国間
の共通点や相違点と思われている状況は、詳
細に調査を進めると、大きく変化することがあ
ります。
図 1: 長寿
1990 年~ 2013 年生まれの人の平均寿命(年)
オーストラリア 中国 インド 日本 韓国
平均寿命(1990 年) 77 68 58 79 72
平均寿命(2013 年) 82 76 66 83 81
増加 5 8 8 4 9
最も改善が見られた分野 心血管疾患	
癌
下痢/	
下気道感染症
その他/	
心血管疾患
下痢/	
下気道感染症/	
その他	
新生児期の障害	
HIV および結核
心血管疾患	
癌
心血管疾患	
癌
出典:保健指標研究所、Life Expectancy & Probability of Death、2014、http://vizhub.healthdata.org/le/.
WHO 世界疾病負担より。
7© The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
医療負担
疫学的転換
先進国と途上国では発病や死亡の原因が異な
りますが、この背景にある重要な要素として、
経済発展によって疫学的転換が起こるという事
実があります。貧困社会では通常感染症への
集団感染による負担が大きくなっていますが、
国民所得の増加に伴って医療および医療制度
改革も進むことが多く、こうした状況は徐々に
改善されます。人は必ず死を迎え、何らかの
理由で必ず死ぬ運命にあります。したがって、
感染症疾患が減少すれば NCD が表面化し、
それが死因の大半を占めるようになるのは自
然なことです。
本研究の対象となった 5ヵ国の中には、既に
そうした疫学的転換を遂げた国もあれば、現
在まさに転換中の国もあります。オーストラリ
ア、日本、および韓国は変化を遂げてから長
期間を経ており、WHO の世界疾病負担の図に
よれば、これらの国々では 1990 年から 2010
年にかけての死因の 80 ~ 90%が NCD となっ
ています。
図 2
94 99
インドにおける疫学的転換
1990年から2000年にかけての傷害調整生存年数(DALY)の変化(%)
赤 ‒ 感染症
青 ‒ 非感染症
緑 ‒ 傷害
早
産
に
よ
る
出
生
時
合
併
症
下
気
道
感
染
症
虚
血
性
心
疾
患
慢
性
閉
塞
性
肺
疾
患
︵
C
O
P
D
︶
結
核
新
生
児
敗
血
症
路
上
で
の
傷
害
鉄
欠
乏
性
貧
血
自
傷
行
為
新
生
児
脳
症
腰
痛
脳
卒
中
大
鬱
病
性
障
害
糖
尿
病
火
災
に
よ
る
熱
傷
先
天
性
異
常
タ
ン
パ
ク
エ
ネ
ル
ギ
ー
栄
養
障
害
転
倒
・
転
落
髄
膜
炎
肝
硬
変
偏
頭
痛
喘
息
麻
疹
H
I
V
/
A
I
D
S
下
痢
中国は、こうした変化を経て最近先進国に加
わり、NCD は、1990 年には死因の 74% であっ
たのに対し、2010 年には 85% を占めるまで
に至りました。インドはこの 5ヵ国の中で唯一、
こうした変化の途上にある国ですが、すでに
重要な転換点を過ぎ、1990 年には死因の
40% に過ぎなかった NCD が、2010 年には死
因の 53% となりました。インドの公衆衛生基
金理事長である Srinath Reddy 博士によれば、
こうした疫学的転換は今後も続くことが予想さ
れ、 同氏は「インドでは、 今後 20 年間で
NCD がさらに急増するでしょう」との見解を示
しています。
しかし、疫学的転換という概念は、その調査
結果同様にとらえにくいものです。感染症が健
康問題の 1 つであるという事実は経済発展と
は関係なく依然として存在していますし、各国
における疫学的転換の背景となる要素も大き
く異なっています。
図 2 に示すとおり、インドの疾病負担の変化は、
主な感染症(赤)による死亡率の減少による
ものであると同時に、NCD(青)と傷害(緑)
による死亡率増加も変化の一因となっていま
8 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
す。エモリー大学ロリンス公衆衛生大学院、
国際保健ヒューバートデパートメント助教授で
ある Mohammed Ali 氏によれば、インドは中
国と同様、疫学的な転換を遂げるのはまだ先
になりそうです。同氏はこの 2ヵ国の人口の大
部分は、医療サービスを受けにくい農村部の
住民であると指摘した上で、次のように述べて
います。「人々の生活の都市化が進み、慢性
疾患に対する認識が進むことで、さらに大き
な疫学的転換が見られるでしょう。」
非感染症(NCD)の増加
最も発現頻度の高い NCD に注目した場合、
経済発展が進んだ国々では似たような傾向が
見られます。WHO の推計によれば、2012 年
の韓国、日本、オーストラリアにおける NCD
による疾病負担の大部分を、癌、心疾患、呼
吸器疾患および糖尿病が占めています(図 3)。
中国の場合、死因に NCD が占める割合に関し
ていえば、韓国や日本、オーストラリアとほぼ
同程度といえますが、各疾患を個別に見てみ
るとその様相は大きく異なっています。中国で
は、2012 年の全死因のうち心血管疾患が占め
る割合は 45% で、その半数以上は NCD によ
るものでした。一方、癌が死因に占める割合
は心血管疾患の約半分でした。また、中国で
は呼吸器疾患による負担も、富裕国に比べて
高くなっており、全死因の 11.3% を占めてい
ます。その大部分が慢性閉塞性肺疾患(COPD)
です。
インドでは感染症による疾病負担がはるかに
高いため、NCD に関する数値は低く抑えられ
図 3:NCD の増加状況
NCD の種類別総死亡率、国別、2012 年 WHO 予測
オーストラリア 中国 インド 日本 韓国
癌 29.5 22.4 7.0 30.3 30.3
心血管疾患合計 30.7 45.0 25.8 29.3 24.5
脳卒中 7.5 23.7 9.0 10.1 10.5
虚血性心疾患 14.5 15.3 12.4 8.6 7.0
呼吸器疾患 6.9 11.3 12.7 6.3 5.2
糖尿病 2.9 2.3 2.3 1.2 4.3
出典:WHO 予測による死因別死亡率(2014 年 5 月)、EIU 算出値
ていますが、傾向としては中国と同様で、心
疾患、さらには COPD による死亡率も癌を上
回っています。
その他、先進国と新興国間に見られる差の 1
つとして、NCD による死亡年齢が挙げられま
す。韓国、日本、オーストラリアでは、30 歳
~ 70 歳の人が癌、心臓病、糖尿病、および
COPD などの複合的な要因により死亡する確
率はわずか 9% 強ですが、中国では 19% です。
またインドに至っては、感染症による死者数が
多いにもかかわらず、この年齢層における
NCD による死亡率は 26% です 2
。
死亡率は、疾病負担を測る 1 つの指標にすぎ
ません。障害調整生存年数(DALY)などといっ
た他の指標には、「障害を有していた期間」と
「早死によって失われた時間」の両方による影
響が考慮されています。この指標を用いた場
合、死亡率にはあまり変化は見られませんが、
これらの国々における精神疾患の影響が明ら
かになります(囲み記事参照)。
患者の苦しみに加えて、NCD の増加によって
特に若年層への経済的負担が、国家経済に多
大な影響をあたえる可能性があります。全米
経済研究所が 2013 年に実施した調査によれ
ば、中国やインドはその点で特に脆弱である
と指摘されています。インドでは、2013 年~
2030 年の間に精神疾患と 4 大 NCD 対策に費
やされる費用は 6.2 兆ドルに達すると予測され
ています。中国では心臓病の割合が高いため、
その額は 27.8 兆ドルにも達すると予測されて
います。これは中国の 2013 年度の GDP の約
3 倍にあたります 3
。
9© The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
NCD の主要リスク要因
高齢化社会
調査対象となった 5ヵ国では、平均寿命の延
びとともに出生率の大幅な低下によって高齢
化が進み、今後数十年はこの傾向が続くと思
われます。
中でも日本は、人口のほぼ 4 分の 1 を占め、
調査時の年齢中央値が 47 歳と世界一の高齢
国で、これら 5ヵ国の中で最も差し迫った問題
に直面しています(図 4,5)。オーストラリアは、
現時点の平均年齢は韓国や中国より高いと思
われます。しかしこの 2ヵ国は急速に高齢化が
進み、オーストラリアに追いつきつつあります。
中国では、今後 20 年以内に全人口に占める
65 歳以上の人口の割合が、オーストラリアと
同程度になると予測されています。北京大学
国家開発学院)の経済学教授であり、同大学
の国家医療経済研究所所長を務める Gordon
Liu 氏は、「中国における高齢化社会の理由の
大半は他の国々と共通していますが、労働年
齢人口の減少は、一人っ子政策によるもので
す」と述べています。韓国は、政府が少子化
対策をとっているにもかかわらず、世界で最も
出生率の低い国の 1 つです。中国はその韓国
の後塵を期すことになるでしょう。インドはこ
の 5ヵ国の中で唯一、人口置換水準を上回る
出生率を誇る国です。とはいえ、他国に比べ
て緩やかではあるものの高齢化は進んでおり、
平均寿命は増加しているということは、この国
でも変化がいずれ目に見えてくるということで
す。
高齢化は多くの NCD の罹患率と密接に相関し
ており、その影響は既に、医療効果を測る各
種指標によって明らかにされています。これら
の 5 カ国では、すべての年齢層における NCD
による死亡率は横ばい、もしくは増加している
ものの、年齢調整死亡率(高齢者人口による
影響を調節した割合)は低下しています。こう
した傾向は、最も高齢化が進んだ国である日
本で特に顕著です。(図 6)
事態をより複雑にしているのは多重疾患の増
加、すなわち、2 つ以上の慢性疾患(通常は
NCD)があり、その管理を必要とする人の割
合が増加しているということです。この問題は、
人口の高齢化が進むにつれて大きくなります。
高齢になると病気にかかりやすいのは事実で
すが、だからといって、高齢者が不健康だとい
うわけではありません。東京大学国際保健政
策学部長、渋谷健司氏は、世界疾病負担研究
のデータによると、「世界中で罹病 [ 年数 ] が
短縮している」と述べています。NCD の副作
用の多くは適切な管理を行っていれば防ぐこと
ができますが、高齢化社会にあっては、医療
システムはこれまで以上に多くの患者の疾患管
理を支援することが求められるようになります。
オーストラリア 中国 インド 日本 韓国
(年)
出典:UN Population Division, World Population Prospects 2012
図 4
各国の人口の年齢中央値
(出生率の予測を含む)
10 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
出典:UN Population Division, World Population Prospects 2012
図 5
65歳以上人口の割合
オーストラリア 中国 インド 日本 韓国
生活習慣
多くの NCD のストレス要因の大部分は、健康
的な生活習慣を選択することである程度は防ぐ
ことができます。不健康な生活習慣の内容や
その程度、またそれによる影響は多種多様で
すが、これによって各国の NCD 負担に差が生
じます(図 7)。
調査対象の 5ヵ国では、「世界の疾病負担」
調査の図からは、食生活の乱れ、特に果物不
足が共通のリスクとして指摘されています。
しかしの他の問題は、各国でばらつきがあり
ます。中国では、塩分の過剰摂取が差し迫っ
全年齢層
出典:保健指標研究所による世界の疾病負担ホームページ GBD Compare , 2013,
http://vizhub.healthdata.org/gbd-compare.
年齢調整後
図 6
人口100,000人中のNCDによる死亡件数(日本)
た課題となっています。世界の疾病負担のデー
タからは、2010 年には塩分の過剰摂取が全
死因の 10% 前後を占めたことが示されていま
す。これは日本や韓国でも重要な課題であり、
インドでもある程度同様です。塩分は、中国
と日本おいて第 2 位の疾患リスク要因とされて
いる高血圧を引き起こし、脳卒中とも関連して
います。このことは、これらの 2ヵ国では心臓
病よりも心血管疾患が多いことを裏付けてい
ます 4
。
オーストラリアでは、総カロリー摂取量がより
重要な課題となっています。これに運動不足も
加わり、腹囲が急速に増えています。オースト
11© The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
ラリアでは、成人の 28% が肥満症に分類され
ています(2011 年;OECD のデータより)。オー
ストラリアのノートルダム大学医学部長の
Christine Bennett 氏はオーストラリアでの肥満
の蔓延について「おそらく、オーストラリアが
現在直面している中で最も重要な健康課題で
ある」と述べています。
他の国々の肥満人口は、本研究の結果からは
かなり少ないとされていますが、近年では、
主に経済発展の結果として、食事内容や交通
事情に変化が起こっており、これらが懸念材料
となっています。韓国国際保健医療財団事務
局長である Changbae Chun 氏は、「韓国では、
特にジャンクフード食べる若年層において、
肥満の問題が大きくなっています」と述べて
います。
図 7:死亡リスク
主な健康リスクと年間 DALY(人口 100,000 人中;2010 年)
オーストラリア 中国 インド 日本 韓国
食事 1553 食事 3536 食事 4327 食事 1555 食事 1957
高 BMI 1338 高血圧 2625 家庭内の空気汚染	
(固形燃料の使用に
よる)
3154 高血圧 990 アルコール摂取 1665
喫煙 1290 喫煙 2062 喫煙 3141 喫煙 985 喫煙 1349
高血圧 963 大気中の微粒子に	
よる環境汚染
1763 高血圧 2726 運動不足と	
低活動量
584 高血圧 1034
運動不足と低活
動量
702 家庭内の空気汚染
(固形燃料の使用に
よる)
1502 空腹時高血糖 1916 空腹時高血糖 941
空腹時高血糖 1089 大気中の微粒子に	
よる環境汚染
1817 高 BMI 810
アルコール摂取 907 職業上のリスク 1647 運動不足と	
低活動量
759
職業上のリスク 825 小児期低体重 1369
高 BMI 816 アルコール摂取 1358
運動不足と低活動量 780 鉄分不足 1242
運動不足と低活動量 1223
最適ではない	
母乳育児
735
出典:保健指標研究所(IHME)GBD Compare
インドの肥満率は、調査対象となった 5ヵ国で
最も低いものの、国際糖尿病財団次期会長で
ある Shaukat Sadikot 博士によれば、インドで
も子どもたちの肥満が大きな問題になりつつあ
るとして、「子どもたちの身体活動レベルが低く
なってきています。私たちの世代は歩いて学校
に行ったものでしたが、今では自家用車やス
クールバスを使う子が増えています。また、私
たちが子どものころは、校庭で何時間も遊んで
いたものでしたが今ではそのような習慣はなく
なり、良い成績をとるための習い事や塾通い
が多くなりました」と述べています。
12 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
アジア諸国では、オーストラリアほどの BMI の
上昇は見られていませんが、医学的な見解によ
ると、人種的には、欧州人よりもアジア人の方
が体重増加の悪影響を受けやすいと言われて
います 5
。インドや中国における急速な糖尿病
患者の増加については、体重増に対する人種
的な感受性の高さから説明がつきます。また中
国では経済発展が進んだ他の先進国と比較し
て心血管疾患が多くなっていますが、これは、
この国の塩分過剰な食生活から説明可能です。
不健康な生活習慣は回避可能なものです。ア
ポロ病院グループ専務理事である Preetha
Reddy 博士は次のように述べています。「これ
らの問題は、私たちが国として、あらゆる利害
関係者を巻き込んだ上で早急に、こうした傾
向を改善するための方策をいかにして講じる
かにかかっています。」喫煙傾向の変化は有効
な対策の鍵となります。本研究を実施した時
点では、いずれの国においても喫煙は依然と
して心疾患、癌、慢性呼吸器疾患の主な要因
でした。しかし 1990 年からの 20 年間の喫煙
率の低下(図 8)によって、本研究の調査対
象国を悩ませていた医療負担も低下し、年齢
調整 DALY で測定したところ、人口 100,000
人当たりの低下率は 18%(インド)~ 61%(韓
国)となっています。
環境関連リスク
経済発展は、NCD をさらに加速させる物理的
環境も作り出しています。大気汚染の悪化から、
中国やインドにおいて呼吸器疾患が増加して
いることを説明することができます。またこれ
らの国では、環境汚染や家庭内の空気汚染と
いった大気汚染はそれぞれ個別に、 人口
100,000人当たりのDALYを押し上げています。
世界疾病負担の図によれば、これらの国の大
気汚染による DALY への影響は、富裕国にお
ける喫煙による影響よりも大きなものとなって
います。
途上国でこれらの問題を悪化させているのが
都市化の進行です。都市への移民は汚染源の
近くに住居を構えることが多く、こうした地域
は安全性に欠けるため運動の機会も失われま
す。また、栄養バランスのとれた食事も取りづ
らくなります。中国ではこの 20 年間で都市部
に住む人の割合が 31% から 56% に急増しま
した。 国連ではこの割合は今後 20 年間で
71% に達するだろうと予測しています。同期間
におけるインドの都市化の進行は 27% から
33% と緩やかで、20 年後の予測は 42% とさ
れています。ただし都市化の傾向は中国と同
様です。Srinath Reddy 氏は「現在の都市化
の進行は、無計画で混沌としたものです。こう
した状態は、NCDを大幅に蔓延させるでしょう」
と述べています。
感染症-結核
本研究の調査対象国では疾病負担の大部分を
NCD が占めていますが、感染症に関する課題
がなくなることはありません。2003 年には中
国で SARS が、さらに最近では韓国で MERS
が大流行しましたが、これら 2 つの感染症の
大流行によって、たとえ先進国であっても、新
型感染症の管理をすることが非常に困難であ
ることが証明されました。既存の疾患が再燃す
ることもあります。日本の場合、NCD 対策が
図 8:喫煙率の低下
成人の喫煙率(男女)
1980 1996 2006 2012
世界 25.9 23.4 19.7 18.7
オーストラリア 30.8 24.1 19 16.8
中国 30.4 29.5 23.9 24.2
インド 18.9 17.7 15.5 13.3
日本 36.2 32.1 27 23.3
韓国 36.1 31.7 25.6 23.9
出典:Marie Ng et al., “Smoking Prevalence and Cigarette Consumption in 187 Countries, 1980-2012,”
Journal of the American Medical Association, 2014
13© The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
成功したことによって高齢化が進み、下気道感
染症による死亡が増加したことは皮肉な結果
です。
インドなど感染症が依然として多い国々と、
オーストラリアのように感染症は差し迫った脅
威というよりは潜在的な危険であるという国と
では、感染症に関する課題も異なっています。
例えば結核(TB)など、個別の疾患に対して
各国がどのような管理を行っているのかを検討
することは、国ごとの課題の違いを明らかにす
るのに役立ちます。
TB は根治可能な感染症ではありますが、治療
は長期にわたる複雑なもので、薬剤耐性の問
題が大きくなっています。WHO によれば、イ
ンドと中国は TB の高負担国であり、この 2ヵ
国では感染症による死因および DALY の原因
上位 3 位に TB が入ります。これらの国では
TB 蔓延率が高く人口規模も大きいことから、
2013 年の世界の TB 患者の 24% はインドが、
11% は中国が占めています 6
。
両国ともに、国による結核対策プログラムを設
けています。これは、直接監視下で薬物療法
を提供することに加えて、資金調達および治療
機会の両面で、各種公衆衛生システムが関与
するという、WHO 支援による DOTS 戦略に沿っ
たプログラムです。こうした対策が進み、中国、
インド共に TB 罹患率は低下し、1990 年比で
約 2 分の 1 になったと推測されています。イン
ドでは同期間に死亡率も同様に低下していま
すが、中国では 1990 年と比べて 6 分の 1 未
満にまで低下しています 7
。
しかし、TB 対策に関わる国際市民団体会長で
ある Blessina Kumar 氏は、この 2 ヵ国の TB
対策は不十分であり、それによって薬物耐性
の問題が発生していると指摘しています。同氏
は次のように述べています。「インド、中国と
もに TB 対策として正しい政策をとっていない
のは明らかです。そうでなければこの 2ヵ国で
毎年多剤耐性(MDR)TB が増加するというこ
とはあり得ません。」
インドでは、公的医療が不十分で、患者が様々
な疾患の症状にさらされます。そこで民間の医
師を過剰に受診するようになります。最近まで
は、これらの医師による治療にはほとんど規制
がありませんでした。当局は、こうした医師ら
が薬剤の種類や投与量を誤り、さらなる薬剤
耐性を招いていると考えています。
中国では現在人口の多くが健康保険を活用で
きる状態であるにも関わらず、問題を抱えてい
ます。中国の健康保険は移住先で使うことが
できず、都市部に住む移民は(もっともリスク
にさらされているにもかかわらず)TB 検査お
よび診断が有料になります。これが診断漏れ
につながります。さらに、病院は収入の大半
を薬の販売から得ているため、薬剤の不正投
与または過剰投与が起こりがちです。
その結果、各国で MDR-TB が急増しています。
インドでは、2009 年に確認された件数が 1,660
件であったのに対して、2013 年には 25,000 件
に増加しています。しかしこの数は WHO が推
計する実際の年間件数である 62,000 件を大き
く下回っています。WHO が推計する中国での
年間件数(未報告含む)は 54,000 例で、イン
ドよりやや少ないですが、2013 年に報告され
たのは約 3000 件でした。WHO では、MDR-
TB を「健康危機」と呼び、Kumar 氏も次のよ
うに述べて同意を示しています。「薬剤耐性 TB
の発生により、対応が非常に難しくなっており、
ほぼ毎日、TB 患者の治療のために奔走してい
る状態です。」両国とも、問題を認識してはい
ますが、改善に向けた歩みは遅々たるものです。
韓国や日本では TB の問題はかなり小さいです
が、依然として問題であることには変わりませ
ん。韓国の TB 罹患率は OECD 加盟国中最高
で人口 100,000 人中 97 件です。日本は 18 件
ですが、それでも他の先進国の大半と比較す
ると数倍の罹患率です。WHO ではこの 2ヵ国
を中等度の結核負荷国と分類し、難しい状況
は今後も続くだろうとしています。多くの場合、
TB 菌はヒトの免疫システムによって遮断され、
潜伏、無害化します。しかし、潜伏感染の
10% は、特に免疫システムが低下すると活動
性疾患となります。韓国では、特に朝鮮戦争
のころには TB が健康上の大きな問題となりま
した。また日本においても、TB はかつて死因
の最上位にありました。潜伏感染中の TB は、
長い時間をかけて活性化する場合があります。
一度活性化すると他者への感染能を持つよう
になります。
14 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
特に韓国では、死亡率は低下しているものの、
発症率は変わらず、それどころかこの 10 年間
で増加しています。これは 1995 年から 2010
年にかけて TB への関心が薄れたことによるも
のです。2011 年には TB 対策の予算が 4 倍に
増額されました。これらの国々では NCD の高
負荷国としての対策も必要ですが、現在進行
形の TB 問題も無視できるレベルのものではあ
りません。
オーストラリアではまた問題が異なります。TB
患者数は、1980 年代以降人口 100,000 人中
7 ~ 8 件で低いまま推移しており、罹患者は主
に移民とアボリジニに限られています。そのた
めオーストラリアではハイリスクグループへの
対応に焦点が当てられ、事前入国審査におけ
るスクリーニングを強化しています。
インド、およびインドほどではないにせよ中国
でも、既存の疾患対策が必要とされますが、
富裕国でもやはり、疾患の蔓延を防ぐために
用心を怠らないようにしなければなりません。
医療で重要なのは測定結果です。2012 年以
降の WHO の死亡率推計によれば、本調査対
象の 5ヵ国において、精神疾患による直接的
な負荷は小さいとされています(図 9)。精神
疾患患者の死亡に関しては、ほぼすべてがア
ルコールと薬物乱用によるものとなっていま
す。なお中毒はこの調査結果においては、精
神疾患のサブカテゴリ―に分類されています。
精神疾患による死亡率が低いのは、データの
分類のしかたによって一部の問題の取り扱い
が曖昧になっているからです。例えば自殺は、
各国で分類のされ方が異なっています。
疾患の性質もまたデータに影響します。精神
疾患の多くは若年齢で発症し、死に至ることは
ないものの、回復には長期間を要します。障
害生存年数(YLD)に着目すると、死亡率と
は大きく異なる様相が浮かび上がります。調
査対象の 5ヵ国では YLD の 20% ~ 30% は
精神疾患によるもので、中でも鬱による負担
が最も深刻です。DALY は、YLD と早死によ
り失われた年数を調整して算出された値で、2
つの要素の間を取った値になります。
DALY と YLD は、死亡率と共に医療負担も測
定するために 1990 年代に導入されました。こ
れによって、これまでほとんど認知されてこな
かったメンタルヘルスの問題にも注目が集まる
ようになりました。
数値的な変化にも関わらず、メルボルン大学
アジア・オーストラリア・メンタルヘルス部長
である Chee Ng 教授は、メンタルヘルスに関
する議論は困難であるとの認識を示したうえで、
「一般的に言ってメンタルヘルスについての議
論は、癌や心血管疾患といった問題に比べて
興味が持たれにくく避けられがちです」と述べ、
次のように続けています。「目の前に問題が生
じていたとしても、政治家や一般市民の関心
をこの問題に向けさせることは非常に困難でし
た。」同様に、インドの Srinath Reddy 博士も
次のように述べています。「精神疾患は重要な
問題です。この問題は長年にわたって公にさ
れてきませんでしたが、散発的に実施される
調査からは、危険性が高まっていることが示さ
れていました。」
中国やインドの状況は厳しく、精神疾患の治
療はほとんど存在せず、治療の水準も非常に
低くなっています。2012年のランセット誌では、
1 億 7300 万人が診断可能な精神疾患状態に
あり、うち 1 億 5800 万人は全く治療を受けて
いない状態だと報じられました。中国の精神
科医の数は人口 50 万人に対し 1 人未満です。
精神疾患:長く放置されてきたNCDが今
注目されています
15© The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
公式には人口 10 万人に対して 1.5 人の精神
科医がいることになっていますが、国家資格
等を有しているのは全体の 5 分の 1 にすぎま
せん。一方インドでは、人口 10 万人あたりの
精神科医の人数はわずか 0.3 人にすぎません。
また心理学者は 200 万人に 1 人です 10
。施
設における精神疾患治療は、さらに不安な状
態です。ヒューマンライツウォッチが最近発表
した、インドの 24 の女性患者用精神科病院
についての報告のタイトルは「動物よりひどい
扱い」で、その実態を正確に示すものでした。
日本や韓国における精神疾患の治療の難しさ
は、これとはまた異なります。精神疾患患者
は病院ではなく、地域社会で治療を受けるべ
きだというのが現在の国際的なコンセンサス
です。すなわち、身体的な症状や心身の状態
に対する医学的治療よりも、患者を医学的、
社会的にサポートし、雇用サービスを提供す
ることで、統合的な支援策を提供し、「回復」
を促すという考え方です。この場合の「回復」
とは、患者自身が、一般社会の中で意義を
感じられる人生を送れるようになる状態を指し
ます。
日本や韓国では、従来の精神科医の管理下で
行う医療施設をベースにした「医療モデル」
から、地域社会をベースにした「回復モデル」
へ変化しつつあります。日本では精神病院の
ベッド数が徐々に減少しているとはいえ、人口
1000 人当たり2.7 床というのは、OECD 加盟
国中で最多で、日本の次にベッド数が多い国
と比べて 60% も多く、加盟国平均の 4 倍超
になります。対照的に韓国ではこの 20 年間で
ベッド数が 3 倍以上に増え、OECD は韓国で
は入院が過度に長期化し、また強制的な入院
が行われているとして批判しています 11
。
Ng 教授によれば、オーストラリアは比較的好
ましい状況にあるものの、依然として課題は多
いとした上で、次のように述べています。「オー
ストラリアではメンタルヘルスのサポートシス
テムが全土に行きわたっており、良質なメンタ
ルヘルスサポート、投薬、病院での医療サー
ビスを受けやすくなっています。同時に人々の
健康増進や病気予防の活動も行われていま
す。」また同国では、新しい、地域社会ベース
の治療プログラムの取り組みとして、メンタル
ヘルスとソーシャルサービスの統合、および関
係者間の協力体制の構築などが実践されてい
ます。しかし Ng 氏は「メンタルヘルスによる
医療負担の増加対策は今後も続きます」と述
べています。
このように多くの国で精神疾患の治療が問題
になっているにもかかわらず、同氏をはじめ、
他のインタビュー回答者はその理由を楽観的
にとらえています。各国の政府はこの問題への
取り組みの必要性を認識しており、中国、イン
ド、日本では大規模な改革が最近になって発
表され、開始されています。
Reddy 博士は、最近のインドでの改革を前向
きにとらえていますが、「患者の登録は単なる
枠組みに過ぎず、実行力を伴っていません。
精神科医の数は依然として大きく不足している
し、心理学者その他の専門家も足りていませ
ん」と警告しています。富裕国といえどもこう
した問題がないわけではありません。Ng 教授
は「進歩はしているが、変化には時間がかか
ります」と述べています。
図 9:精神疾患は知らぬが仏?
2012 年の精神疾患負担(指標別)
オーストラリア 中国 インド 日本 韓国
死亡 1% 0% 0% 0% 0%
DALY 13% 9% 6% 8% 14%
YLD 25% 27% 22% 20% 30%
出典:WHO
16 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
NCD の増加に関する懸念の背景には、従来の
救急治療と短期治療に重点を置いてきた多く
の医療制度に対して、この疾患がある種の課
題を突き付けているという認識があります。多
くの NCD は長期的な管理を必要としており、
それが生涯続く可能性もあります。Srinath
Reddy 博士は、そのような患者の治療を効果
的に行うには、医療の「大改革が必要になる」
と指摘しています。
予防と医療行為を統合したシステムとは、患者
の権利を中心に据え、プライマリーケア担当者
を介して組織的に行うものであり、NCD の管
理に著しい効果をもたらすものです。さらに、
こうした効果的なシステムの基本は、医療技術
よりもその戦略を中心に展開されるため、国民
所得に関わらず、どこの国でもあまり変わりま
せん。国際対癌連合の次期会長である Sanchia
Aranda 教授は「専門職による医療制度の下で
は、だれもが大成功につながる新しいことをし
たがります」と述べて、次のように続けます。「し
かし、既知のことを体系的に適用させていくこ
とで改善を図ることは可能なのです。目新しい
ものにこだわる必要はありません。」
予防策
疾患予防が重要だと言うのは簡単ですが、実
際に予防を行うのは簡単ではありません。疾患
予防は健康的な選択についての教育から始ま
ります。しかし渋谷教授は、社会的環境的要因
に照らして「個人の生活習慣を変えることは非
常に難しい」と指摘します。そのため、他の戦
略が注目を集めることがよくあります。Srinath
Reddy 博士は、予防策は様々な反応を加味し
て作成されることが必要だとして次のように述
べています。「人口集団を対象とした調査によっ
て、多くの効果的な予防策を実施可能です。
調 査 に は そ れ ほど費 用 は か かりませ ん 」
好ましい状態とは
2
「Population prevention(対象人口全体での予
防策)」、すなわち不健康な生活習慣の選択を
抑制するための法や規制の整備、課税などに
も費用はそれほどかかりません。ただしこうし
た政策には規制を伴うため、市民の抵抗にあ
うことも考えられます。いずれの予防策も、対
象人口集団が変化の必要性を認識していない
限りはうまくいきません。したがって効果的な
予防策には、例えば、新たな法整備があった
とき、それを自己の選択を邪魔するものではな
く、健康的な生活につながるものとして肯定的
にとらえることができるような意識の転換が必
要となります。
医療アクセス
医療アクセスは包括的なものであることが必要
です。本研究から、インドと中国では国内の
医療アクセスにおいて、とくに農村部で顕著な
問題を抱えていることが明らかになりました。
両国では医療の機会均等のための取り組みを
行ってきましたが、現実は目的の達成には及
ばず、困難は続いています。また、経済発展
の進んだ国々でも問題は存在しています。
Bennett 教授によれば、医療サービスの構造
は複雑になりがちで、患者にとっては利用しづ
らいものであるとのことです。同氏は、こうし
た構造的な複雑さによってサービスの利用が
困難になり「適時に、適切な場所で、適切な
治療を受けること」が難しくなっていると指摘
します。
患者中心の医療
効果的な NCD 管理においては、患者は治療
のパートナーであり、単なる治療の受益者で
はないというのが共通の認識となっています。
カイザーパーマネンテによるピラミッド構造
(図 10)では、NCD 患者の 70% から 80% は、
17© The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
医療従事者を時折受診するだけの、自己管理
型のサポートを受けていると推測されていま
す。集中的な医療サービスを必要とするのは、
複雑な合併症を伴う患者だけです。アジア糖
尿 病 財 団 CEO である Juliana Chan 教 授 は、
その理由は単純であるとして次のように述べて
います。「糖尿病患者が担当医師を受診するの
は年に 3 ~ 4 回のみ、その内容は 1 時間の治
療だけで、患者はその後の自己管理について
の指導を受け、治療スタッフからのサポートを
受けます。」さらに、国際患者団体連合会長で
ある Kin-ping Tsang 氏は「医療サービスのあ
らゆる場面において、患者が関与しなくてはな
りません。これを怠った場合、医師も政府も患
者のニーズや嗜好を把握することができませ
ん」と述べています。
患者を中心とした治療という原則は広く受け入
れられていますが、この原則は、患者にも医
師にも行動上の変化を求めるものであり、現
実的には困難である場合もあります。Tsang
氏は、患者が自らの治療における「パートナー
であり、利害関係者である」ことを自覚しなけ
ればならないと述べています。そのためには
さらなる教育が必要となります。Ali 博士は「健
康に関する教育と知識はそれだけで変化をも
たらすものではありません。自分の病気につ
いて知ることも 1 つですが、バランスの良い食
生活や運動など健康に良い生活習慣を取り入
れて生き方を変える意義を感じ意欲を持つこ
と、薬物療法の指示を守り、決められた通り
医療機関へ来院することも必要です」と付け加
えます。WHO 西太平洋地域の保健センター開
発所長の Vivian Lin 博士は、患者により一層
真剣になってもらうには、文化的な変化も必
要であると指摘して次のように述べています。
「多くの国では、病気になると治療を望みます
が、自身の健康状態を良好に保つことについ
て、必ずしも強い関心を持っているわけではあ
りません。病気予防を生活上の優先事項と位
置付けてはいないのです。」
Tsang 氏によれば、特に医師や専門家が患者
をパートナーとして扱うことが必要で、このよう
な意識変化はアジア諸国では特に難しいとのこ
とで、次のようにも述べています。「これらの国々
では、医師や医療専門家は『王様』であると
いう文化があります。患者は他の利害関係者と
も同等の立場にはなく、力関係としては垂直構
造にあります。つまり患者の立場は低いのです。
こうした意識を変える必要があります。」
患者中心の医療では、病気治療だけを切り離し
て考えるのではなく、医学的な側面はもちろん、
時には患者の社会生活にまで広く目を向けて、
総合的観点から患者のニーズを集約します。
プライマリーケアの重点化
本研究の調査対象となった 5ヵ国で、効果的
で行き届いた医療を提供するには、NCD 管理
および医療制度全体において、プライマリー
ケアに力を入れることが重要です。うまくいけ
ば、適時の教育と早期発見はもちろん、疾患
管理全体のサポートも可能になります。
しかしこれはすんなり達成できるとは限りませ
ん。医師は常に NCD 患者のニーズを把握して
いるわけではありませんし、医療制度から構造
的な問題が生じることもあります。調査対象国
の一部では、一般に開業医がゲートキーパー
としての役割を与えられておらず、患者やその
家族・友人などは開業医の医療サービスを高
く評価しない傾向があります。日本では開業医
は専門家と認識すらされていません。Lin 博士
はこうした状況下では、「プライマリーケア担
当者を育て、地域社会にプライマリーケアを
良質の医療だと認識させることは簡単なことで
はない」と述べています。
症例
管理
疾病管理
サポート付自己管理
人口集団全体の予防策
出典:NHS、バーミンガム大学
重度の合併症患者
高リスク患者
慢性疾患患者の
70%∼80%
図 10
カイザーのピラミッド構造図:
慢性疾患治療の3段構造
18 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
医師主導型ではない医療をプライマリーケア
で提供できれば、事態はより簡単に進む可能
性があります。Chan 教授は「医者は、看護師
など他の医療従事者へ上手く知識を伝達し、
彼らをサポートしなければなりません。看護師
にかかる費用は平均 4 分の 1 で済むのです」
と述べ、それによって、医師の手間が省け、
複雑な症例への対処がしやすくなるとしていま
す。Srinath 博士は簡単なテクノロジーの導入
によってより良いプライマリーケアが実現でき
ると考え、次のように述べています。「医師が
プライマリーケアに関わることは必要かもしれ
ませんが、全てを医師がする必要はありませ
ん。テクノロジーを利用することで、治療の最
前線にいる医療従事者が代行できます。しか
しこのような変化は、自身の立場を心配する医
師からの抵抗に遭う可能性があります。
NCD 対策を超えて
医療制度改革の必要性は、NCD 負担の増加か
ら生じる場合もありますが、NCD に対するアプ
ローチは一般的に感染症を含むあらゆる疾患
対策に効果的であることから、医療制度全般
の向上に役立つ可能性が高くなります。日本
エイズ学会会長の岩本愛吉教授は、アジアの
多くの国で蔓延する HIV/AIDS 対策の難しさの
1 つに「多くの国の医療制度が、抗生物質の
投与によって 5 日以内に治癒させる、急性感
染症に重点を置いた制度となっている」ことが
挙げられると述べ、慢性感染症には重きが置
かれていないことを指摘しています。同様に、
Kumar 氏は、TB 対策の最大の弱点は行き過
ぎた医師中心、医学中心の制度にあると考え
ており、「私たちに必要なのは、TB への考え
方を根本から変え医学的な要素のみにとどまら
ず、人間中心、患者中心の解決策を見出すこ
とです」と述べています。
Ali 氏は、このような医療制度は実現可能であ
るとしていますが、「これらの国々が抱えている、
通常の 2 倍、3 倍もの疾病負担を効果的に管
理するには、その国の医療制度全体をより一
元的に考えること」の方が、著しく増加してい
る NCD 対策の費用を賄うという理由で他の疾
患の予算配分を奪うことよりも、必要であると
述べています。
最も変化を必要とする地域
NCD に適した医療制度では、個々の要素それ
ぞれも有効ですが、それらを組み合わせて使
うことが最も効果的であると証明されています。
「予防策、長期療養、医療などの一元化を図る
ことが必要です」と渋谷教授は述べています。
本研究の調査対象国である 5ヵ国の医療制度
を検討したところ、このような理想的な改革を
遂げた国はありませんでした。本セクションで
は、各国が直面する課題を検討していきます。
オーストラリア
オーストラリアは、世界で最も平均寿命が長い
国の 1 つであるとともに、慢性疾患が蔓延し
ている国でもあります。住民の 77% が 1 つ以
上の慢性疾患を抱えています。オーストラリア
には、メディケアと呼ばれる国民皆保険制度、
プライマリーケアの重視、慢性および急性疾
患患者どちらにも効果的な治療を施す総合病
院制度など、この国の疾患負担の現状を管理
するための、貴重な医療資源が各種揃ってい
ます。医療制度は国の経済を圧迫するもので
はなく、医療費は GDP の 11.5% で OECD 加
盟国平均をわずかに上回る程度です。しかし、
いくつかの顕著な弱点もあり、近年対策が講じ
られています。
医療の分断
Bennett 教授は、オーストラリアの医療制度が
直面する最も大きな課題は、地域社会、自宅、
または病院のいずれで行われる医療について、
それらの要素を連携させることにあると指摘し、
「患者にとって必要なのは、複雑な制度を利用
する際のサポートと、治療の連携です」と述
べています。
オーストラリアの課題の一部は、医療のコーディ
ネートを本質的に難しくしている制度上の区分
に由来するものです。国が全体の保健政策お
よびメディケアに関する財政的な責任を有して
おり、後者には一般開業医および総合病院以
外の専門医の受診を補助するメディケア給付制
度(MBS)、および国民医薬品給付制度(PBS)
があります。各州は、公衆衛生と公立病院の
管理を担当し、連邦政府と州政府の両方が病
院の財政的な支援を担っています。
19© The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
医療が分断されるもう1 つの原因は、患者より
も医療提供者を過度に重視した制度設計にあ
ります。これが患者の混乱を招き、予防策に費
やす予算が削られます。これは先進国の多くに
共通した問題です。2009 年、政府の要請で実
施されたオーストラリアの医療制度に関する大
規模調査によってこの問題が注目されました。
報告書では次のように述べられています。「概
して患者はあちこちを回って複数の医療専門家
を自ら探して受診しなければならず、チームと
して機能し、ともに治療にあたり、患者のニー
ズ全体を把握した医療を提供するような医療専
門家集団にかかることはできない」12
。この調
査の実行委員会会長の Bennett 教授は、これ
は現在のオーストラリアでも依然として変わっ
ていないと述べています。
政治的コンセンサスの欠如
オーストラリアでは、2009 年度に発表されたレ
ポートによって国内の医療改革に関する大きな
議論が巻き起こり、2011 年に国家医療改革合
意に達しました。医療統合の強化を目的に行
われたこの合意によって、医療サービスの提供
と統合の促進を目指した各種団体が設立されま
した。「Australian National Preventative Health
Agency(全国予防衛生局)」はその 1 つです。
しかし 2013 年の政権交代によって、この合意
の多くが縮小または中止となりました。Bennett
教授は、「医療改革者が挑戦することで、永続
的な変化が生み出される」と指摘します。この
問題は、最善策についての政治家の合意が得
られるまでなくならないでしょう。
中国
中国政府は近年大規模な医療改革を実施し、
多くの人が最低限必要な医療を受けることが
できるようになりました。しかし、従来からあ
るいくつかの問題によって、医療提供者はこの
国の高い NCD 負担に効果的に対応することが
できなくなっています。
プライマリーケアの問題
中国の医療改革の中心は、地域の医療セン
ターや診療所、地域の国立病院の活用拡大を
通じて、プライマリーケアを医療の中心に据え
ることでした。2009 年~ 2011 年およびそれ
以降に中国政府は 471.5 億人民元(当時で約
74 億ドル)を村の診療所(25,000 件)、地域
保健センター(2,000 件以上)、および各地に
ある国立病院(地域保健センターとほぼ同数)
のインフラ整備に投資しました 13
。
しかし改革開始以来、プライマリーケア従事者
がゲートキーパー、コーディネーターとしての
役割を担っている事例はありません。加えて、
三次医療を提供する都市部の大病院を受診す
る人の数は大幅に増えたものの、地域のプラ
イマリーケア利用者数には変化がなく、一次
医療の提供者である国立病院は十分に活用さ
れていません 14
。
こうした施設利用の不均衡は患者が高品質の
医療を求めた結果です。Liu 氏によれば、大
都市の医療制度では、最高の病院で最高の医
師を雇い、長期にわたって、医師らが地域社
会をベースとした医療を行うことを阻んできま
した。「良い医師が大都市の病院に閉じ込めら
れ、地域社会で良質の医療を受けることがで
きなくなった場合、多くの人は入院や外来受
診に限らず、経過観察や薬の処方のためだけ
でも、大病院へ行く方を選ぶでしょう」と同氏
は述べています。その結果、待たされた挙句
診察は短時間で、しかも担当医師も過労状態
であるということになり、患者の不満が生まれ
ます。医師は 1 日 70 人から 100 人もの患者
を診ることもあります 15
。「診療所では、ほとん
どのスタッフが患者に飢えています」と Liu 氏
は述べ、さらに「診療所には患者がいないの
です」と続けます。
その他の原因として、経済的な問題が挙げら
れます。中国では現在大部分の国民が何らか
の医療保険を利用していますが、Liu 氏によれ
ば、8 億超の農村部の住民や無職の都市生活
者の保険の多くは入院治療を対象としたものと
なっています。
財政問題もまた、プライマリーケアとその他の
ケアの線引きをあいまいにする原因となってい
ます。病院収入のうち国の補助金は 9%しかあ
りません。不足額の多くは薬の売り上げや治療
費で穴埋めしています。この結果、病院による
薬の過剰処方や、高額の医療機器の利用、地
域社会ベースの外来診療で行った方がコスト
パフォーマンスが高いはずの医療の提供など
が行われています 16
。
20 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
Liu 氏はこれを、とくに NCD に関して深刻な
問題ととらえ、「慢性疾患に必要な医療提供に
は診療所が最も適していますが、現在多くの
患者は、定期検診や薬の処方にも大病院を受
診しています」と述べ、次のように続けていま
す。「病院中心の医療から、地域社会をベース
にした医療サービスシステムの構築という、大
きな変化が必要です。」
高額の医療費
医療保険の適用拡大によって、患者側の医療
費負担は軽減されましたが、これによって医療
費問題が解決されたわけではありません。全
ての主要な医療保険プログラムでは、患者負
担額はかなりの額に上り、中国の独立市場調
査期間である Horizon Research Consultancy
(零点研究咨询集团)が 2013 年に行った調査
では、回答者の 87% が改革によって医療費が
以前よりも高くなったと回答しています 17
。
極端に高額の医療費負担(可処分所得から食
費を引いた額の 40% 超を医療費に費やすこと
と定義)を強いられた患者の割合は、対人口
比で年間 13% 前後を維持していたという結果
が、多数の学術研究から明らかにされています。
このうちの 1 つである WHO の広報誌では、中
国人「非貧困層」全体の 7.5% が、医療費を
理由に「貧困層」になっていたことが示されて
います。こうした費用による締め付けが、最適
な医療の提供を妨げるのは当然のことです 18
。
医師と患者の信頼関係の低下
中国では、医療問題を発端として医療従事者
と患者の協力関係が失われつつあり、疾患に
関する不満の増大につながっています。政府
の広報機関は、国営のポータルサイトを通じて
「医師と看護師の危機が、医師と患者の信頼関
係にも影響している」と報じています 19
。
この「危機」とは、政府の出した数値を反映し
たものです。中国病院協会(Chinese Hospital
Association)の調査によれば、中国の全病院
で起こった、医師に対する患者の年間暴力件
数は、2008 年には 20.6 件だったのに対して
2012 年には 27.3 件に増加しています。
暴力は氷山の一角にすぎません。2013 年 11
月に「中国青年報」が中国全土で数十万人を
対象に行った意識調査では、回答者の 67%
が医師の診断や、医師の推奨する治療法を信
頼していないと答えていることが明らかになり
ました 20
。
政府は医療制度がいまだ脆弱なものであるこ
とを認識しており、プライマリーケアの充実な
どといった、さらなる変化を模索してきました。
しかし国内のニーズに対応した医療制度を構
築するには、医療の供給問題と同じように、
患者の不満や認識についても取り組む必要が
あります 21
。
インド
インドには設備の整った素晴らしい医療施設
があります。それらの多くは、貧困層も富裕層
も同様に受けることのできる、効果的で、質
の高い専門医による治療の提供方法の研究に
関する国際的な症例研究でも取り上げられる
施設です。ナラヤナ・フルダラヤ心臓病院、ア
ラヴィンド・アイケアシステム、およびアポロ
グループ傘下の 3 つのリーチホスピタルでは、
革新的でコストパフォーマンスの高い医療を取
り入れ、相互支援方式も採用することで、収
入に関係なく、様々な患者への医療を幅広く
提供しています。
ただしこれらの病院で見られる成功例はインド
では例外的であり、この国の医療全体でみる
と、疾病負担への対応に苦しんでいます。イン
ドが抱える問題の鍵となるのは医師不足と高
額な医療費、NCD にその中心が移りつつある
疫学的な変化であり、これらがこの国の医療
における重要な課題となっています。
低料金で受けられる医療の不足
インド政府計画委員会の推計によれば、公的
な医療制度は現在この国のほんの一部にしか
行き届いておらず、2008 年には医師 60 万人、
看護師100万人が不足していたということです。
人口 1000 人に対して医師はわずか 0.6 人、ベッ
ド数は 0.7 床で、隣国であり、同じく新興市場
国でもある中国(人口 1000 人に対して医師 1.5
人、ベッド数2.6床)も遙かに下回っていますが、
こうした数値は当然の結果と言えます。医療従
事者は都市部に集中し、この国の人口の大部
分が住む農村部における医療の不足を招いて
います。利用できる医療サービスも、インド人
の収入から考えると安いものではありません。
21© The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
EIU の推計では、2015 年の国民一人当たりの
医療費総計はわずか 72ドルですが、その 4 分
の 3 は民間資本に頼っています。この民間資
本の多く(82%;2012 年 WHO 調べ)は患者
の自己負担であり、インド政府の見積もりによ
れば、この莫大な医療費によって、毎年インド
国民の 5% に当たる 6300 万人が貧困に陥って
いるとのことです 22
。
EIU のデータによれば、かかりつけ医による簡
易健康診断でさえ、個人の 1ヵ月の可処分所
得の 36% に相当するほど高額で、これが病気
予防と早期診断を妨げていることが暗に示され
ています。このことが慢性疾患管理を孤立させ
ているのです。Sadikot 博士は「インドでは、
糖尿病患者数が 6200 万人に達していますが、
その半数は自身が糖尿病であることにも気が
付いていません」と指摘します。
NCD に対する準備不足
NCD は現在インドの疾病負担の半分以上を占
めていますが、この問題に対する医療制度の
準備が整っていません。インド政府は「新国
家保健政策」の草案を作成し、その中で「非
感染症の増加に対する取り組みは初期段階(原
文より)にあり、国内全土に取り組みを行きわ
たらせるには、非常に長い時間がかかる」と
述べています。草案ではメンタルヘルスに関し
て「残念ながら放置状態にある」と率直に認
めています 23
。
Preetha Reddy 博士はそれに同意した上で、
現行の医療制度は急性期の一時的な治療を重
視したものであると指摘し、「プライマリーケア
レベルでの予防医療が非常に弱く、保険の対
象となるのも、主として入院治療です」と述べ、
次のように続けています。「慢性疾患のための
長期療養施設の建設も始まろうとしているとこ
ろですが、その大部分はやはり透析など一時
的な治療用の施設です。」
Preetha Reddy 博士によれば、二次医療と三
次医療の隔たりの一部は民間セクターの協力
によって埋められるかもしれないとのことです。
ただし高額な医療費が国民にのしかかり、有
資格の医師や看護師も不足しています。つまり
政府には、医療の拡大のための財源を探し出
す必要があるのです。
インド政府は財源確保の必要性を認識し、国
の医療費予算をこれまでの 2 倍にあたる、
GDP の約 2.5% に引き上げることを発表し、基
本的権利の中に医療を含めると宣言することも
検討していました 24
。しかし、緊縮策の実施中
であった政府は、財源確保の方法については
明言していませんでした。結局、医療費予算
は前年度比 20% の削減となりました。
日本
日本の医療制度は、1961 年の国民皆保険制
度開始以来成功してきたことは、紛れもない
事実です。世界一の長寿国であるだけでなく、
GDP に占める医療費の割合も OECD 加盟国平
均と同程度の 10.5% となっています。このよう
な記録にもかかわらず、懸念は増大していま
す。2010 年の調査では回答者の 74% が、自
身または家族が、必要な際に高品質の医療を
受けられるかどうかについて、「ある程度」ま
たは「非常に」不安に思っているということが
明らかになりました 25
。渋谷教授は、国民皆
保険制度ができたのは、若年人口も多く、経
済発展も著しかった 50 年前のことで、「今、
制度全体の見直しが必要になっている」と指
摘します。
持続可能な財政
日本の医療費は過去 5 年間で急増しており、
2010年には対GDP比で9.6%だったのに対し、
2015年には10.5%となっています。国内のデー
タによれば、1990 年以来の総医療費増加の原
因の半分は高齢化です。また、EIU の予測に
よれば、今後も医療費は膨らみ続けるとみら
れていますが、その速度は緩やかになると予
想されます 26
。
日本の医療の多くは社会保障費でまかなわれ
ていますが、その 10% は国家予算であり、長
年にわたる経済停滞後のコスト増を考えると、
好ましくない状況です 27
。EIU によれば、日本
の国債発行額は対 GDP 比 234% にも上り、
OECD 加盟国中最高でギリシャ(171%)をも
大きく上回っています。また、近年の改革では
医療費の民間負担を増加させる試みもなされ
ていますが、より効果的な医療制度もまた必
要とされています。
22 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
医療提供者によるガバナンス
伝統的に日本政府は、医療政策の主な柱とし
て診療報酬を管理し、ガバナンスについては
医療提供者に任せていました。その結果、医
師を頂点とした医療環境となり、必ずしも理想
的な医療が提供されているとは言い難い状況
です 28
。
日本の医師の数は OECD 標準に比べて少なく
(人口 1000 人に対し 2.2 人)、この原因の一部
には、医師の数を増やすことに対する、医師
会の強固な反対があります。しかし日本人 1
人当たりの年間病院受診回数は 14 回(1 か月
に 1 回強)であり、病院受診率が最も高い国
の 1 つです。こうしたことが長い待ち時間や短
時間の診察の原因となり、NCD に見られがち
な複雑な症例に費やす時間がほとんど取れな
くなります。放射線医師や糖尿病専門医など、
特定の専門医が不足している他、看護師や高
齢者介護士が特に不足しているため、これら
を埋め合わせるために、政府が介護ロボット
の研究支援に乗り出しています 29
。
病院中心の制度
日本の医療制度は他の先進国と比べても、病
院への依存度が極めて高い制度となっていま
す。調査によると、2014 年の救急病院ベッド
数は人口 1000 人当たり 12.7 床で、OECD 加
盟国中最も多く、平均の約 3 倍です。また患
者の入院期間も長く、平均 18.5 日です。これ
も OECD 加盟国中最も多く平均の約 3 倍です。
さらに高齢化がこうした状況に拍車をかけてい
ます。日本政府はここ 10 年近く、高齢者のた
めの長期介護施設の建設を進めていますが、
依然として高齢者の長期療養先は病院で、費
用も高くつきます。こうした状況に加えて、各
種疾患治療における入院期間が、軽度の場合
も含めて国際標準よりも長い傾向があり、これ
によって、皮肉な状況が生まれています。ベッ
ド数が多いにもかかわらず、ベッド不足のた
めに救急患者の搬送先が見つからないという
状況です。
大人数の入院患者を抱えているにもかかわら
ず、実際の病院業務の多くは外来診療です。
治療を受けるのに紹介状が必要になることは
ありません。また総合病院グループの診療所
では、従来からプライマリーケアと二次医療、
三次医療の線引きがあいまいになっています。
実際、国内の大手民間総合病院の多くは、小
規模な診療所からスタートし、徐々に規模を拡
大して、競争相手である公立病院と肩を並べる
までになりました 30
。日本ではまた、開業医は
専門医として認識されていないため、開業医
がゲートキーパーとなることや、治療のコー
ディネーター役を担うことがないのです 31
。
OECD が最近発表した報告書では、日本の高
齢化対策にはプライマリーケアが必須であると
して、次のように述べています。「患者の健康
を保ち、経済的にも社会的にも活動的な生活
を維持させるには、1 つ以上の慢性疾患を抱
える患者に対して、先を見据えた、調整の行
き届いた、個に応じた医療を提供する医療制
度が必要である。これらの課題達成のための
取り組みの中心となるのがプライマリーケアの
強化である」32
。例えば、開業医による一般診
療が不十分なため、日本では高血圧の診断率
が低く、診断を受けた患者の疾患管理が徹底
されていないと考えられます 33
。
次なる段階
政府は 2025 年の医療サービスを見据えた、
一連の医療制度改革案を導入しました。この
改革案では、特に予防の役割や医療の統合の
推進、ならびに高齢者に対する医療およびソー
シャルケアにより重きが置かれています。
しかしそのロードマップは明らかにはされてお
らず、「法案は通ったものの、誰が、何を、ど
のように進めていくのかという大きな疑問が
残っています。『勤務医が開業するということ
か?』『開業医が何もかもを背負うのか、それ
とも専門医を雇うのか?』『長期療養はだれが
担うのか?』などといった疑問への回答が必要
ですが、これは非常に政治的なプロセスにな
ります」と渋谷教授は指摘します。
23© The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
韓国
韓国は包括的な国民皆保険制度を非常に早く
確立しました。1989 年に国民皆保険制度が始
まり、その後、国民健康保険(NHI)公団が
設立されました。治療は無償ではなく外来の
自己負担額は 30% ~ 60% です。ただし低所
得者の負担額は低く、年間医療費の上限も定
められ、個人の負担額が莫大な額にならない
ようにしています。この結果は概ね良好で、本
研究の調査対象 5ヵ国の中でも、近年の平均
寿命の延びは最高になっています。
こうした取り組みは NCD にも対応しています。
韓国はアジア太平洋地域の中で、癌管理のパ
イオニアです。同様に、主な NCD についての
全国的な検診もかなり以前から行われている
と、Changbae Chun 氏は述べています。にも
かかわらず、急速に進行する高齢化と NCD の
負担増への対策によって、韓国はいくつかの
重要な課題に直面しています。
医師を頂点とした制度設計
韓国の医療制度における課題の多くは日本が
抱える課題と同様です。医師の数(人口 1000
人に対して 1.7 人)は、韓国医師会からの圧
力により、国際標準からみて低い水準を維持し
ています。これによって診察時間が短くなって
います。1 人の医師が年間に診る患者の数は
平均 7000 人以上で、OECD 加盟国の中でも
最高レベルであり、平均の 3 倍です 34
。同様に、
治療の大部分は病院を中心に行われ、診療所
と病院の線引きがあいまいになっていますが、
診療所が救急医療を行うことはまれです。入
院期間は平均 17.5 日で、OECD の加盟国平均
の 2 倍強であり、病院中心の治療が行われて
いることを反映しています。またこの国の、
「サービスに対する対価」の考えに基づく資金
調達モデルも原因の 1 つとなっています。
Chun 氏によれば、NCD 管理にはプライマリー
ケアの大改革が求められているとのことです。
「現在多くの患者が NCD 治療のために病院に
通います。私たちに必要なのは、プライマリー
ケアに重きを置いた医療プログラムです」。残
念ながら、既に区別が曖昧になっている医療
制度においては、プライマリーケアを担う医師
にはゲートキーパーとしての役割がなく、プラ
イマリーケアの立場も近年低下しています。さ
らに、プライマリーケアで受けられる医療を質
の悪いものとみなし、満足できるレベルに無
いと考えている患者からは、支持が得られてい
ません 35
。大病院の外来に患者が集まるのも、
プライマリーケアによるゲートキーパーシステ
ムに逆行しています 36
。
そのため、NCD 治療のために必要でもない入
院が増加する傾向にあります。例えば OECD
の報告書では、韓国は COPD や喘息による不
必要な入院率が最も高い国であるとされてお
り、しかも通常は地域社会ベースでの管理が
可能であるはずの高血圧による入院も着実に
増加し、現在 OECD 加盟国中第 4 位の入院率
であると報告されています 37
。
医療の量から質への転換の必要性
国民皆保険制度ができてから比較的日が浅いこ
とを考慮すると、韓国の医療制度は現在進行
形で形成されつつあると言えます。現在進めら
れている NHI の保険範囲の拡大はコスト増に
つながっています。GDP に占める医療費の割
合は OECD の加盟国平均を下回っていますが、
2002 年から 2012 年の総医療費は毎年 8% 増
加しており、この増加率は OECD 加盟国平均
の 2 倍です。現政権では、将来を見据えて、癌、
心疾患、脳卒中対策に、さらに多くの予算を
費やす政策をとっています。
しかし、治療転帰についてのモニタリング、さ
らには患者の安全性に関するモニタリングです
らも、他の先進諸国と比べて十分ではなく、
懸念が生じる原因となっています。例えば、韓
国の各医療機関では最新の医療機器を取り入
れていますが、心臓発作による入院後 30 日以
内に死亡する患者の割合は、他の OECD 加盟
国と比べて非常に高くなっています 38
。
質の高い医療は患者の利益になるだけでなく、
医療提供者の利益にもなります。Chun 氏によ
れば、韓国国民は、医療の受益者としての優
れた教育を受けており、病院や診療所を選ぶ
際は、韓国健康保険審査評価院によるオンラ
インサービスを使って、品質チェックをする人
が増えているとのことです。
24 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
低すぎるメンタルヘルスへの関心
本研究の調査対象となった 5ヵ国すべてで、
精神疾患患者への治療が不十分であることが
明らかになりましたが、特に韓国ではそれが
顕著でした。これは自殺率からも明らかであり、
国内の統計によれば、自殺は、癌、心臓疾患、
脳卒中に次ぐ死因の第 4 位です。OECD の調
査によれば、自殺をする人の割合は人口 10
万人中 28.4 人で、世界第 3 位です。自殺者数
は 2000 年から 2011 年までに約 2 倍に増加し
ています。
障害生存年数(YLD)全体に占める精神疾患
の割合は 30% で、本研究における他の調査
対象国の割合を上回っています。リスクに目を
向けた場合、アルコールはしばしば精神疾患
の原因および結果の両方に関連し、韓国の 1
人当たりの DALY が、他の 4ヵ国と比べて長
いことの原因となっています。また世界疾病負
担の研究結果から、アルコールは食事に次い
で 2 番目に高い健康リスクであることが明らか
になっています。
しかし韓国では、地域社会をベースにした統
合的な医療の提供よりも、長期間の入院治療
を重視した対策をとってきました。韓国は、精
神病棟への長期入院数の増加が見られる数少
ない先進国の 1 つであるだけでなく、入院患
者のおよそ 4 分の 3 は、通常は患者の家族か
らの正式な要請を受けた強制的な入院です 39
。
韓国では、精神疾患対策により重点を置く必
要があることは明らかです。
25© The Economist Intelligence Unit Limited 2015
アジア太平洋地域における医療の展望
オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題
本研究の調査対象国である 5ヵ国を含めて、
いずれの国においても、増加する疾病負担に
見合う理想的な医療制度を簡単に整えてくれ
る、魔法のような手段は存在しません。そこで
このセクションでは、各国の様々な医療制度の
下で、現在直面している問題に対応するべく試
みられている手法、ならびにこれらの取り組み
から見えてきた課題を概説します。
有効な予防策
予防可能な NCD の罹患率が増加、もしくはす
でに蔓延して医療負担の大部分を占めている
国にとって、予防法に関する取り組みは非常に
魅力的なものです。ただし、人々に「健康と
は何か」を伝えるだけでは有益とは言えませ
ん。効果的な戦略を立てるには、より深く検討
することが必要です。
コミュニティへの拡大(韓国)
ソウルの江東区では、患者が病院に行くのを
ただ待つよりも、地域の保健所の活用を進め
たことで、予防に成功しました。
江東区では 2007 年に、地域の健康相談所モ
デル事業の展開のために、政府および関係者
の協力を得て保健所が開設されました。最終
的には区内 18 か所にある地域住民センターの
うち 16 のセンターに保健所が開設されました。
各保健所の運営は看護師が担っており、30 歳
以上の住民を対象に、腹囲、血圧、血糖値、
中性脂肪、および HDL コレステロールの 5 項
目の検診を通じて NCD のリスク評価を行って
います。また、看護師は健康的な食生活や生
活習慣に関する指導も行い、検査を受けた人
に地域で行っている運動のサークルや教室を
紹介し、必要に応じて医師の紹介も行ってい
ます。
このような、住民の健康を地域が担うという方
法によって、従来の医療では満たされなかっ
たニーズに対応できているようです。このプロ
グラム開始以来、65,000 人の登録がありまし
た。これは対象年齢人口の 5 分の 1 にあたり
ます。検診参加者は、予防についての看護師
の指導にも耳を傾けているようです。健康相
談プログラムの登録者中 32% は、最初の 6 か
月間で高血圧が改善されたばかりでなく、体
重減も認められました。韓国では他の地域で
も江東区の成功をモデルとした取り組みが試
みられています 40
。
たばこ規制(オーストラリア)
オーストラリアでは長きにわたってたばこ規制
が行われており、一歩先を行く取り組みをして
います。政府出資による禁煙広告キャンペー
ンが始まったのは、州レベルでは 1971 年、
国全体では 1972 年でした。開始以来、常に
他国の先を行く取り組みをしており、広告禁止
と公共の場所での禁煙は、今や世界の大部分
で共通の政策となっています。
ごく最近では、たばこへのプレーンパッケージ
導入の義務(プレーンパッケージ法)が法制
化されました。ややわかりにくい名称が付い
たこの法律では、たばこのパッケージにブラ
ンド名の掲載を禁じ、たばこによる健康被害
に関する警告画像を入れることを義務付けて
います。オーストラリアのたばこ価格はすでに
国際標準よりも高額ですが、2013 年以来 4
回にわたって、たばこへの課税を年 12.5% 引
き上げる政策がとられ、さらに値上げが続い
ています。
実例に見られる変化
3
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The Shifting Landscape of Healthcare in Asia-Pacific: Japanese version 太平洋地域における医療制度の展望

  • 2. 1© The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 目次 本報告書について 2 研究の概要 3 長寿社会の実現のために 6 医療負担 7 疫学的転換 7 非感染症(NCD)の増加 8 NCD の主要リスク要因 9 感染症-結核 12 精神疾患:長く放置されてきた NCD が今注目されています 14 好ましい状態とは 16 予防策 16 医療アクセス 16 患者中心の医療 16 プライマリーケアの重点化 17 NCD 対策を超えて 18 最も変化を必要とする地域 18 オーストラリア 18 中国 19 インド 20 日本 21 韓国 23 実例に見られる変化 25 有効な予防策 25 コミュニティへの拡大(韓国) 25 たばこ規制(オーストラリア) 25 国民皆保険の推進(中国) 27 患者による自己管理を中心とした医療 28 革新的な情報通信技術の活用 29 ビッグデータの活用(日本) 29 ポイント・オブ・ケア診断(インド) 30 医療の再構築 30 介護保険制度(韓国) 31 社会保健活動家(インド) 31 結論 33 今後の展望 33 注 35
  • 3. 2 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 本報告書に ついて 欧州とは異なり、先進国、今後成長の可能性がある途上国、 近年成長目覚ましい新興国など、政治的・経済的背景が異 なる国々が混在するアジア太平洋地域では、医療制度に対 するアプローチも国ごとに異なっているのが特徴です。そ のためこの地域は、国によって差はあるものの、疫学的に は転換期を迎えており、各国内の医療負担の中心が感染症 から非感染症(NCD)に移りつつあります。 本報告書(アジア太平洋地域における医療の展望・オース トラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題)は、 アジア太平洋地域における疾病負担に起因する課題等につ いて比較、検討するために、エコノミスト・インテリジェンス・ ユニット(EIU)がヤンセンの協賛の下で作成したものです。 また本報告書では、感染症および非感染症患者へより良い 支援を行うために、これら5ヶ国で共有可能な最善の患者 支援策を明らかにすることも目指しています。 本報告書は以下の医療関係者ならびに専門家の協力の下、 徹底した机上調査とインタビューにより作成されました。 Mohammed Ali 助教授、エモリー大学ロリンス公衆衛生大 学院、国際医療学部ヒューバートデパートメント Sanchia Aranda 教授、国際対がん連合次期会長 Malcolm Battersby 教授、フリンダース大学、人間行動学 および保健研究ユニット部長 Christine Bennett 教授、ノートルダム大学医学部長 Juliana Chan 教授、アジア糖尿病財団 CEO Changbae Chun 氏、韓国国際保健医療財団事務局長 岩本愛吉教授、日本エイズ学会会長 Lixin Jiang 教授、北京、国家心血管病センター Blessina Kumar 氏、結核対策に関わる国際市民団体会長 Vivian Lin 博士、WHO 西太平洋地域保健開発部長 Gordon Liu 教授、北京大学国家開発学院、経済学教授; 北京大学国家医療経済研究センター所長 Chee Ng 教授、メルボルン大学、アジアオーストラリア・ メンタルヘルス部長 Preetha Reddy 博士、アポロ病院グループ専務理事 Srinath Reddy 博士、インド公衆衛生基金理事長 Shaukat Sadikot 博士、国際糖尿病財団次期会長 渋谷健司、東京大学国際保健政策学教室教授 Kin-ping Tsang、国際患者団体連合会長 本報告書は Paul Kielstra が執筆、Charles Ross が編集し EIU のヘルスケアビジネス部門である Bazian 社の Elly O'Brien が研究補佐を担当しました。この場をお借りして、 本報告書作成にあたって取材協力をいただいた皆様にお 礼を申し上げます。
  • 4. 3© The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 研究の 概要 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の 医療はこの 20 年間で著しく改善され、これら 5ヵ国では平均寿命も大きく伸びています。と はいえ、保健医療を取り巻く環境は常に流動 的で、各国に課題をもたらしているリスクは変 化し続けています。本報告書では、これら5 カ国が現在直面している、または将来直面す るであろう疾患、ならびにその対策としてどう いった医療制度を採用しているかを明らかにし ます。主な見解は以下の通りです。 非感染症(NCD)は、現段階ですでにこれら 5ヵ 国における医療負担の大部分を占めています。 従来、感染症は途上国の、非感染症は先進国 の問題とされてきました。日本、オーストラリア、 韓国はかなり以前に疫学的な転換期を迎え、 NCD が医療負担の大部分を占めるようになっ ていましたが、近年、中国でもそれと同様の 傾向が見られるようになり、2010 年には中国 における死因の 85% が NCD となりました。ま たインドでも死因の大半(53%)が NCDとなり、 その割合は今後増加すると見られています。 いずれの国においても、感染症は依然として 潜在的な脅威であり、インドや中国の医療制 度にとっては現在進行形の重大な課題である と言えます。とはいえ、医療負担の大部分は NCD であり、今後もその負担は増加するとみ られています。 これら5ヵ国における特定の NCD の影響は様々 で、その悪影響を最も受けているのが中国やイ ンドです。NCD の増加要因リスクとしては、加 齢、喫煙や不健康な食習慣、運動不足、環境 汚染、都市化などが挙げられます。ただしこれ らのリスク強度は各国間で著しく異なるため、 問題となる NCD の種類も国ごとに大きく異な ります。例えば東アジアでは、塩分の過剰摂 取によって脳卒中の発現件数が増加していま すが、オーストラリアでは過剰なカロリー摂取 によって、心臓疾患がより大きな問題となって います。また中国やインドでは、大気汚染によっ て慢性閉塞性肺疾患(COPD)や肺がんの発 現率が急増しています。現在途上国が抱える 能動的リスク、受動的リスクによる代償は、先 進国が直面するそれよりも重く、WHO によると、 韓国、日本、オーストラリアでは、30 歳~ 70 歳の人が癌、心臓病、糖尿病、および COPD などの要因により死亡する確率はわずか 9% 強ですが、中国では 19%、インドでは 26% にもなります。 精神疾患が医療負担の一部を占めていることは ほとんど認識されていません。精神疾患は重大 な NCD の 1 つですが、直接の死因となること が非常に少ないため、死亡に関するデータか らは精神疾患による影響が見えにくくなる傾向 があります。しかし障害生存年数の合計で考え ると、医療負担は大きく、全体の 20% ~ 30% を占めます。精神疾患を有する患者向けのサー ビスの提供は充実しているとは言えません。中 国やインドではこの分野の改革が始まっていま すが、医療従事者の数やインフラ整備の状況
  • 5. 4 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 は、患者のニーズを満たしているとは言えませ ん。日本や韓国では、現在のベストプラクティ スとされている地域社会ベースのケアではな く、病院のみで行う治療が依然として主流です。 この分野に関してはオーストラリアが一歩先を 行っていますが、道半ばというところです。 NCD の対策として、患者を中心とした、利用し やすい医療制度の設計が必要とされています。 医療制度の多くは救急治療のために開発さ れ、現在もそれに適した制度設計となってい ます。しかし現在の医学的理解においては、 NCD の多くは長期的な管理を必要とする慢性 度の高い疾患です。そのための医療制度に求 められているのは、費用対効果の高い予防策 を適切に活用すること(NCD の多くは予防可 能なため)、医療制度を利用しやすくすること で、より継続的なケアが行き届くようにするこ と、患者中心のケアを提供すること。つまり患 者が医師の指示を仰ぐのではなく、自ら体調 を管理できるようにするために、医療従事者 は患者を支援する必要があります。また、制 度を統合することで、患者個人のニーズに沿っ た、カスタマイズされた治療(通常はプライ マリーケアに重点を置くことで最も効果が上が る)が提供できるようにすることも必要です。 こうした医療制度は NCD 対策だけではなく、 結核や HIV などといった感染症に特化したケ アにも役立ちます 今回の研究では、こうした理想に適う医療制度 は確認できていません。また一部には、医療 負担の現状に対して不適当であり、憂慮され るべき制度も見受けられます。各国の政策に は弱点があります。 l オーストラリア-財政的には堅調な医療制 度ではありますが、従来の医療従事者に焦点 を当てた制度ではなく、患者を中心とした制 度への統合を図る必要があります。現在の制 度は複雑で、患者は活用が難しいと感じてい ます。 l 中国-これまでのところ、国内の医療制度 改革は不調であり、患者中心の、統合的で利 用しやすい医療制度の確立には至っていませ ん。病院での診察は、せわしなく働くスタッフ との簡単なやり取りに終始しがちです。さらに、 依然として医療費は高く、医療に対する不満は 患者と医師の信頼関係に悪影響を及ぼしてお り、中国人の 3 分の 2 は「医師の専門的意見 を信頼していない」という事態にまで至ってい ます。 l インド-依然として救急医療に焦点を当て た制度設計となっており、保健省でさえ NCD 対策は「初期段階」にあるとの認識を示して います。また、高額の医療費によって、国民 の多くは通常の医療を受けることが困難な状 態です。こうした要素から、長期的なケアを効 果的に行うことが非常に難しくなっています。 今回のインタビュー回答者の 1 人は、この国 の 6200 万人にも上る糖尿病患者の半数は、 自分が糖尿病に罹患していることすら気づいて いないと指摘します。 l 日本-日本の医療制度には多くの長所があ りますが、医師を頂点とした、病院における 治療に重点を置いた制度設計で、プライマリー ケアの役割には重きが置かれていません。そ の結果、提供される医療は統合性に欠けるも のとなり、医師や専門家が不足しているため、 患者の待ち時間ばかりが長くなり、診察時間は ごく短時間という状態です。また、現行の医療 制度では、財政難に苦しむ国が制度維持の財 源負担を求められています。こうした状態で今 後制度を維持し続けられるのかという点も、議 論の余地があるところです。 l 韓国-ここ数十年で飛躍的な改革を遂げた 韓国の医療制度ですが、プライマリーケアが 不十分であることや、病院を過度に重視した 制度、医師不足など、日本と共通する欠点も 抱えています。医療の質により重点を置く必要 がありますが、精神疾患の患者を対象とした 制度等は、そのニーズに照らして特に手薄に なっていると言えます。 効果的な変化に向けた大小の取り組み。完璧 な医療制度を作ることは容易ではありません が、本研究の調査対象国における様々な取り 組みから、多くの重要分野で変化が可能であ ることが明らかにされています。 l 予防策-効果的な予防策は人々の賛同が 得られるのはもちろんですが、健康的な選択
  • 6. 5© The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 がしやすくなる状況をも作り出します。このよ うな状況は、様々な段階を経て作り出すことが できます。韓国の江東区では、医療施設では なく地域を基盤とした保健相談センターに多く の市民が集まり、市民の健康に好ましい影響 を与えていることが、各種指標から明らかに なっています。国レベルでは、オーストラリア の禁煙政策が挙げられます。教育、規制、課 税対策を組み合わせて、一貫した活動を何十 年も継続した結果、1970 年代半ばには 38% だった喫煙率が現在は 13% に減少しています。 l ユニバーサルアクセス(機会均等)-前述 の通り、中国における医療制度改革には大き な弱点がありますが、成功例がないというと語 弊があります。医療保険の大幅な拡大は医療 施設の利用増加につながり、ワクチン接種や 妊産婦のケアなどといった、基本的な医療サー ビスが拡充されました。 l 患者中心主義-オーストラリアのフリンダー ス医療センターが作成した慢性疾患重症化予 防プログラム(The Flinders Program)によって、 医師 ‐ 患者間の信頼関係の構築を含む自己管 理支援システムが形成され、患者中心の統合 的な医療という理想の実現に向かっています。 初期に行われた研究からは、医療行為の成果 に改善もみられています。 l 技術-情報通信技術改革は、医療サービ スの提供にも大きなイノベーションもたらして います。日本では成功事例の理解を深めるた め、外科医や糖尿病専門医はビッグデータを 活用しています。この分野でのパイオニアであ る心臓外科医は 10 年以上にわたってデータ活 用の成果を目にしてきました。IT の利用は富 裕国に限定されるものではありません。インド では、ポイント・オブ・ケア(POC)デバイス の 1 つである Swasthya Slate の利用により、 コミュニティの保健師が現場で 33 種類に及ぶ 各種検査を実施し、必要に応じてそれらのデー タを専門医に転送できるようになりました。 l 医療の再構築- NCD 関連疾患の治療に用 いられる、医師による病院中心の医療費が高 額すぎる場合、代替手段としてどういったもの が考えられるでしょうか?韓国では長期介護保 険事業によって、数年前から補助金付きのソー シャルケアサービスを高齢者に提供しており、 これによって社会的入院(他に望ましい方法 が見つからないことから、高齢者の長期入院 が続く状態)の数が減少する可能性が示され ています。インドでは、社会保健活動家(ASHA) プログラムによって、農村地域で活動する 900,000 名ものコミュニティの保健師のトレー ニングが行われました。特に精神疾患や小児 医療で成果を上げています。
  • 7. 6 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 長寿社会の実現のために 1 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の 各医療制度について、その国の国民の医療 ニーズへの対応力を評価する際は、まず初め に、各国が抱える問題は程度の差こそあれ失 敗例ではなく成功例に起因していることを認識 する必要があります。 平均寿命だけで評価した場合、これら 5ヵ国 では 1990 年から 2013 年にかけて、死亡率が 著しく改善していることがわかります。インド や中国、韓国における平均寿命の増加率は国 際平均値を上回り、これら 3ヵ国ではこの期間 中に毎年 4 ~ 5 か月寿命が延びています。日 本とオーストラリアにおける延びは国際平均値 を下回っていますが、この 2ヵ国はそれぞれ 世界第 1 位と第 3 位の長寿国であり、寿命の 増加が緩やかなのは必然的なことといえます。 (図 1) 寿命の延びはすべての国に共通していますが、 その要因は異なります。インドにおける寿命の 延びは、急性感染症(特に下痢や下気道感染 症など)や、新生児期の障害への対策に由来 しており、1990 年以降の平均寿命の延びの半 分以上は、これら 2 つの対策の成果によるも のです。中国では、感染症や慢性疾患、NCD への対策、特に心血管疾患や慢性呼吸器疾患 対策の充実によって寿命が延びています。本 研究の調査対象国のうち、経済発展が進んで いる 3ヵ国については様相が異なり、心血管 疾患や癌などといった NCD 対策がほとんどで、 これらの国々での平均寿命の延びの半分以上 はこうした対策によるものであるという説明が 可能です。 この他にも平均寿命の数値は、こうした国々が 直面している医療負担についての理解を助け るという側面も持っています。これら 5 カ国間 の共通点や相違点と思われている状況は、詳 細に調査を進めると、大きく変化することがあ ります。 図 1: 長寿 1990 年~ 2013 年生まれの人の平均寿命(年) オーストラリア 中国 インド 日本 韓国 平均寿命(1990 年) 77 68 58 79 72 平均寿命(2013 年) 82 76 66 83 81 増加 5 8 8 4 9 最も改善が見られた分野 心血管疾患 癌 下痢/ 下気道感染症 その他/ 心血管疾患 下痢/ 下気道感染症/ その他 新生児期の障害 HIV および結核 心血管疾患 癌 心血管疾患 癌 出典:保健指標研究所、Life Expectancy & Probability of Death、2014、http://vizhub.healthdata.org/le/. WHO 世界疾病負担より。
  • 8. 7© The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 医療負担 疫学的転換 先進国と途上国では発病や死亡の原因が異な りますが、この背景にある重要な要素として、 経済発展によって疫学的転換が起こるという事 実があります。貧困社会では通常感染症への 集団感染による負担が大きくなっていますが、 国民所得の増加に伴って医療および医療制度 改革も進むことが多く、こうした状況は徐々に 改善されます。人は必ず死を迎え、何らかの 理由で必ず死ぬ運命にあります。したがって、 感染症疾患が減少すれば NCD が表面化し、 それが死因の大半を占めるようになるのは自 然なことです。 本研究の対象となった 5ヵ国の中には、既に そうした疫学的転換を遂げた国もあれば、現 在まさに転換中の国もあります。オーストラリ ア、日本、および韓国は変化を遂げてから長 期間を経ており、WHO の世界疾病負担の図に よれば、これらの国々では 1990 年から 2010 年にかけての死因の 80 ~ 90%が NCD となっ ています。 図 2 94 99 インドにおける疫学的転換 1990年から2000年にかけての傷害調整生存年数(DALY)の変化(%) 赤 ‒ 感染症 青 ‒ 非感染症 緑 ‒ 傷害 早 産 に よ る 出 生 時 合 併 症 下 気 道 感 染 症 虚 血 性 心 疾 患 慢 性 閉 塞 性 肺 疾 患 ︵ C O P D ︶ 結 核 新 生 児 敗 血 症 路 上 で の 傷 害 鉄 欠 乏 性 貧 血 自 傷 行 為 新 生 児 脳 症 腰 痛 脳 卒 中 大 鬱 病 性 障 害 糖 尿 病 火 災 に よ る 熱 傷 先 天 性 異 常 タ ン パ ク エ ネ ル ギ ー 栄 養 障 害 転 倒 ・ 転 落 髄 膜 炎 肝 硬 変 偏 頭 痛 喘 息 麻 疹 H I V / A I D S 下 痢 中国は、こうした変化を経て最近先進国に加 わり、NCD は、1990 年には死因の 74% であっ たのに対し、2010 年には 85% を占めるまで に至りました。インドはこの 5ヵ国の中で唯一、 こうした変化の途上にある国ですが、すでに 重要な転換点を過ぎ、1990 年には死因の 40% に過ぎなかった NCD が、2010 年には死 因の 53% となりました。インドの公衆衛生基 金理事長である Srinath Reddy 博士によれば、 こうした疫学的転換は今後も続くことが予想さ れ、 同氏は「インドでは、 今後 20 年間で NCD がさらに急増するでしょう」との見解を示 しています。 しかし、疫学的転換という概念は、その調査 結果同様にとらえにくいものです。感染症が健 康問題の 1 つであるという事実は経済発展と は関係なく依然として存在していますし、各国 における疫学的転換の背景となる要素も大き く異なっています。 図 2 に示すとおり、インドの疾病負担の変化は、 主な感染症(赤)による死亡率の減少による ものであると同時に、NCD(青)と傷害(緑) による死亡率増加も変化の一因となっていま
  • 9. 8 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 す。エモリー大学ロリンス公衆衛生大学院、 国際保健ヒューバートデパートメント助教授で ある Mohammed Ali 氏によれば、インドは中 国と同様、疫学的な転換を遂げるのはまだ先 になりそうです。同氏はこの 2ヵ国の人口の大 部分は、医療サービスを受けにくい農村部の 住民であると指摘した上で、次のように述べて います。「人々の生活の都市化が進み、慢性 疾患に対する認識が進むことで、さらに大き な疫学的転換が見られるでしょう。」 非感染症(NCD)の増加 最も発現頻度の高い NCD に注目した場合、 経済発展が進んだ国々では似たような傾向が 見られます。WHO の推計によれば、2012 年 の韓国、日本、オーストラリアにおける NCD による疾病負担の大部分を、癌、心疾患、呼 吸器疾患および糖尿病が占めています(図 3)。 中国の場合、死因に NCD が占める割合に関し ていえば、韓国や日本、オーストラリアとほぼ 同程度といえますが、各疾患を個別に見てみ るとその様相は大きく異なっています。中国で は、2012 年の全死因のうち心血管疾患が占め る割合は 45% で、その半数以上は NCD によ るものでした。一方、癌が死因に占める割合 は心血管疾患の約半分でした。また、中国で は呼吸器疾患による負担も、富裕国に比べて 高くなっており、全死因の 11.3% を占めてい ます。その大部分が慢性閉塞性肺疾患(COPD) です。 インドでは感染症による疾病負担がはるかに 高いため、NCD に関する数値は低く抑えられ 図 3:NCD の増加状況 NCD の種類別総死亡率、国別、2012 年 WHO 予測 オーストラリア 中国 インド 日本 韓国 癌 29.5 22.4 7.0 30.3 30.3 心血管疾患合計 30.7 45.0 25.8 29.3 24.5 脳卒中 7.5 23.7 9.0 10.1 10.5 虚血性心疾患 14.5 15.3 12.4 8.6 7.0 呼吸器疾患 6.9 11.3 12.7 6.3 5.2 糖尿病 2.9 2.3 2.3 1.2 4.3 出典:WHO 予測による死因別死亡率(2014 年 5 月)、EIU 算出値 ていますが、傾向としては中国と同様で、心 疾患、さらには COPD による死亡率も癌を上 回っています。 その他、先進国と新興国間に見られる差の 1 つとして、NCD による死亡年齢が挙げられま す。韓国、日本、オーストラリアでは、30 歳 ~ 70 歳の人が癌、心臓病、糖尿病、および COPD などの複合的な要因により死亡する確 率はわずか 9% 強ですが、中国では 19% です。 またインドに至っては、感染症による死者数が 多いにもかかわらず、この年齢層における NCD による死亡率は 26% です 2 。 死亡率は、疾病負担を測る 1 つの指標にすぎ ません。障害調整生存年数(DALY)などといっ た他の指標には、「障害を有していた期間」と 「早死によって失われた時間」の両方による影 響が考慮されています。この指標を用いた場 合、死亡率にはあまり変化は見られませんが、 これらの国々における精神疾患の影響が明ら かになります(囲み記事参照)。 患者の苦しみに加えて、NCD の増加によって 特に若年層への経済的負担が、国家経済に多 大な影響をあたえる可能性があります。全米 経済研究所が 2013 年に実施した調査によれ ば、中国やインドはその点で特に脆弱である と指摘されています。インドでは、2013 年~ 2030 年の間に精神疾患と 4 大 NCD 対策に費 やされる費用は 6.2 兆ドルに達すると予測され ています。中国では心臓病の割合が高いため、 その額は 27.8 兆ドルにも達すると予測されて います。これは中国の 2013 年度の GDP の約 3 倍にあたります 3 。
  • 10. 9© The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 NCD の主要リスク要因 高齢化社会 調査対象となった 5ヵ国では、平均寿命の延 びとともに出生率の大幅な低下によって高齢 化が進み、今後数十年はこの傾向が続くと思 われます。 中でも日本は、人口のほぼ 4 分の 1 を占め、 調査時の年齢中央値が 47 歳と世界一の高齢 国で、これら 5ヵ国の中で最も差し迫った問題 に直面しています(図 4,5)。オーストラリアは、 現時点の平均年齢は韓国や中国より高いと思 われます。しかしこの 2ヵ国は急速に高齢化が 進み、オーストラリアに追いつきつつあります。 中国では、今後 20 年以内に全人口に占める 65 歳以上の人口の割合が、オーストラリアと 同程度になると予測されています。北京大学 国家開発学院)の経済学教授であり、同大学 の国家医療経済研究所所長を務める Gordon Liu 氏は、「中国における高齢化社会の理由の 大半は他の国々と共通していますが、労働年 齢人口の減少は、一人っ子政策によるもので す」と述べています。韓国は、政府が少子化 対策をとっているにもかかわらず、世界で最も 出生率の低い国の 1 つです。中国はその韓国 の後塵を期すことになるでしょう。インドはこ の 5ヵ国の中で唯一、人口置換水準を上回る 出生率を誇る国です。とはいえ、他国に比べ て緩やかではあるものの高齢化は進んでおり、 平均寿命は増加しているということは、この国 でも変化がいずれ目に見えてくるということで す。 高齢化は多くの NCD の罹患率と密接に相関し ており、その影響は既に、医療効果を測る各 種指標によって明らかにされています。これら の 5 カ国では、すべての年齢層における NCD による死亡率は横ばい、もしくは増加している ものの、年齢調整死亡率(高齢者人口による 影響を調節した割合)は低下しています。こう した傾向は、最も高齢化が進んだ国である日 本で特に顕著です。(図 6) 事態をより複雑にしているのは多重疾患の増 加、すなわち、2 つ以上の慢性疾患(通常は NCD)があり、その管理を必要とする人の割 合が増加しているということです。この問題は、 人口の高齢化が進むにつれて大きくなります。 高齢になると病気にかかりやすいのは事実で すが、だからといって、高齢者が不健康だとい うわけではありません。東京大学国際保健政 策学部長、渋谷健司氏は、世界疾病負担研究 のデータによると、「世界中で罹病 [ 年数 ] が 短縮している」と述べています。NCD の副作 用の多くは適切な管理を行っていれば防ぐこと ができますが、高齢化社会にあっては、医療 システムはこれまで以上に多くの患者の疾患管 理を支援することが求められるようになります。 オーストラリア 中国 インド 日本 韓国 (年) 出典:UN Population Division, World Population Prospects 2012 図 4 各国の人口の年齢中央値 (出生率の予測を含む)
  • 11. 10 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 出典:UN Population Division, World Population Prospects 2012 図 5 65歳以上人口の割合 オーストラリア 中国 インド 日本 韓国 生活習慣 多くの NCD のストレス要因の大部分は、健康 的な生活習慣を選択することである程度は防ぐ ことができます。不健康な生活習慣の内容や その程度、またそれによる影響は多種多様で すが、これによって各国の NCD 負担に差が生 じます(図 7)。 調査対象の 5ヵ国では、「世界の疾病負担」 調査の図からは、食生活の乱れ、特に果物不 足が共通のリスクとして指摘されています。 しかしの他の問題は、各国でばらつきがあり ます。中国では、塩分の過剰摂取が差し迫っ 全年齢層 出典:保健指標研究所による世界の疾病負担ホームページ GBD Compare , 2013, http://vizhub.healthdata.org/gbd-compare. 年齢調整後 図 6 人口100,000人中のNCDによる死亡件数(日本) た課題となっています。世界の疾病負担のデー タからは、2010 年には塩分の過剰摂取が全 死因の 10% 前後を占めたことが示されていま す。これは日本や韓国でも重要な課題であり、 インドでもある程度同様です。塩分は、中国 と日本おいて第 2 位の疾患リスク要因とされて いる高血圧を引き起こし、脳卒中とも関連して います。このことは、これらの 2ヵ国では心臓 病よりも心血管疾患が多いことを裏付けてい ます 4 。 オーストラリアでは、総カロリー摂取量がより 重要な課題となっています。これに運動不足も 加わり、腹囲が急速に増えています。オースト
  • 12. 11© The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 ラリアでは、成人の 28% が肥満症に分類され ています(2011 年;OECD のデータより)。オー ストラリアのノートルダム大学医学部長の Christine Bennett 氏はオーストラリアでの肥満 の蔓延について「おそらく、オーストラリアが 現在直面している中で最も重要な健康課題で ある」と述べています。 他の国々の肥満人口は、本研究の結果からは かなり少ないとされていますが、近年では、 主に経済発展の結果として、食事内容や交通 事情に変化が起こっており、これらが懸念材料 となっています。韓国国際保健医療財団事務 局長である Changbae Chun 氏は、「韓国では、 特にジャンクフード食べる若年層において、 肥満の問題が大きくなっています」と述べて います。 図 7:死亡リスク 主な健康リスクと年間 DALY(人口 100,000 人中;2010 年) オーストラリア 中国 インド 日本 韓国 食事 1553 食事 3536 食事 4327 食事 1555 食事 1957 高 BMI 1338 高血圧 2625 家庭内の空気汚染 (固形燃料の使用に よる) 3154 高血圧 990 アルコール摂取 1665 喫煙 1290 喫煙 2062 喫煙 3141 喫煙 985 喫煙 1349 高血圧 963 大気中の微粒子に よる環境汚染 1763 高血圧 2726 運動不足と 低活動量 584 高血圧 1034 運動不足と低活 動量 702 家庭内の空気汚染 (固形燃料の使用に よる) 1502 空腹時高血糖 1916 空腹時高血糖 941 空腹時高血糖 1089 大気中の微粒子に よる環境汚染 1817 高 BMI 810 アルコール摂取 907 職業上のリスク 1647 運動不足と 低活動量 759 職業上のリスク 825 小児期低体重 1369 高 BMI 816 アルコール摂取 1358 運動不足と低活動量 780 鉄分不足 1242 運動不足と低活動量 1223 最適ではない 母乳育児 735 出典:保健指標研究所(IHME)GBD Compare インドの肥満率は、調査対象となった 5ヵ国で 最も低いものの、国際糖尿病財団次期会長で ある Shaukat Sadikot 博士によれば、インドで も子どもたちの肥満が大きな問題になりつつあ るとして、「子どもたちの身体活動レベルが低く なってきています。私たちの世代は歩いて学校 に行ったものでしたが、今では自家用車やス クールバスを使う子が増えています。また、私 たちが子どものころは、校庭で何時間も遊んで いたものでしたが今ではそのような習慣はなく なり、良い成績をとるための習い事や塾通い が多くなりました」と述べています。
  • 13. 12 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 アジア諸国では、オーストラリアほどの BMI の 上昇は見られていませんが、医学的な見解によ ると、人種的には、欧州人よりもアジア人の方 が体重増加の悪影響を受けやすいと言われて います 5 。インドや中国における急速な糖尿病 患者の増加については、体重増に対する人種 的な感受性の高さから説明がつきます。また中 国では経済発展が進んだ他の先進国と比較し て心血管疾患が多くなっていますが、これは、 この国の塩分過剰な食生活から説明可能です。 不健康な生活習慣は回避可能なものです。ア ポロ病院グループ専務理事である Preetha Reddy 博士は次のように述べています。「これ らの問題は、私たちが国として、あらゆる利害 関係者を巻き込んだ上で早急に、こうした傾 向を改善するための方策をいかにして講じる かにかかっています。」喫煙傾向の変化は有効 な対策の鍵となります。本研究を実施した時 点では、いずれの国においても喫煙は依然と して心疾患、癌、慢性呼吸器疾患の主な要因 でした。しかし 1990 年からの 20 年間の喫煙 率の低下(図 8)によって、本研究の調査対 象国を悩ませていた医療負担も低下し、年齢 調整 DALY で測定したところ、人口 100,000 人当たりの低下率は 18%(インド)~ 61%(韓 国)となっています。 環境関連リスク 経済発展は、NCD をさらに加速させる物理的 環境も作り出しています。大気汚染の悪化から、 中国やインドにおいて呼吸器疾患が増加して いることを説明することができます。またこれ らの国では、環境汚染や家庭内の空気汚染と いった大気汚染はそれぞれ個別に、 人口 100,000人当たりのDALYを押し上げています。 世界疾病負担の図によれば、これらの国の大 気汚染による DALY への影響は、富裕国にお ける喫煙による影響よりも大きなものとなって います。 途上国でこれらの問題を悪化させているのが 都市化の進行です。都市への移民は汚染源の 近くに住居を構えることが多く、こうした地域 は安全性に欠けるため運動の機会も失われま す。また、栄養バランスのとれた食事も取りづ らくなります。中国ではこの 20 年間で都市部 に住む人の割合が 31% から 56% に急増しま した。 国連ではこの割合は今後 20 年間で 71% に達するだろうと予測しています。同期間 におけるインドの都市化の進行は 27% から 33% と緩やかで、20 年後の予測は 42% とさ れています。ただし都市化の傾向は中国と同 様です。Srinath Reddy 氏は「現在の都市化 の進行は、無計画で混沌としたものです。こう した状態は、NCDを大幅に蔓延させるでしょう」 と述べています。 感染症-結核 本研究の調査対象国では疾病負担の大部分を NCD が占めていますが、感染症に関する課題 がなくなることはありません。2003 年には中 国で SARS が、さらに最近では韓国で MERS が大流行しましたが、これら 2 つの感染症の 大流行によって、たとえ先進国であっても、新 型感染症の管理をすることが非常に困難であ ることが証明されました。既存の疾患が再燃す ることもあります。日本の場合、NCD 対策が 図 8:喫煙率の低下 成人の喫煙率(男女) 1980 1996 2006 2012 世界 25.9 23.4 19.7 18.7 オーストラリア 30.8 24.1 19 16.8 中国 30.4 29.5 23.9 24.2 インド 18.9 17.7 15.5 13.3 日本 36.2 32.1 27 23.3 韓国 36.1 31.7 25.6 23.9 出典:Marie Ng et al., “Smoking Prevalence and Cigarette Consumption in 187 Countries, 1980-2012,” Journal of the American Medical Association, 2014
  • 14. 13© The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 成功したことによって高齢化が進み、下気道感 染症による死亡が増加したことは皮肉な結果 です。 インドなど感染症が依然として多い国々と、 オーストラリアのように感染症は差し迫った脅 威というよりは潜在的な危険であるという国と では、感染症に関する課題も異なっています。 例えば結核(TB)など、個別の疾患に対して 各国がどのような管理を行っているのかを検討 することは、国ごとの課題の違いを明らかにす るのに役立ちます。 TB は根治可能な感染症ではありますが、治療 は長期にわたる複雑なもので、薬剤耐性の問 題が大きくなっています。WHO によれば、イ ンドと中国は TB の高負担国であり、この 2ヵ 国では感染症による死因および DALY の原因 上位 3 位に TB が入ります。これらの国では TB 蔓延率が高く人口規模も大きいことから、 2013 年の世界の TB 患者の 24% はインドが、 11% は中国が占めています 6 。 両国ともに、国による結核対策プログラムを設 けています。これは、直接監視下で薬物療法 を提供することに加えて、資金調達および治療 機会の両面で、各種公衆衛生システムが関与 するという、WHO 支援による DOTS 戦略に沿っ たプログラムです。こうした対策が進み、中国、 インド共に TB 罹患率は低下し、1990 年比で 約 2 分の 1 になったと推測されています。イン ドでは同期間に死亡率も同様に低下していま すが、中国では 1990 年と比べて 6 分の 1 未 満にまで低下しています 7 。 しかし、TB 対策に関わる国際市民団体会長で ある Blessina Kumar 氏は、この 2 ヵ国の TB 対策は不十分であり、それによって薬物耐性 の問題が発生していると指摘しています。同氏 は次のように述べています。「インド、中国と もに TB 対策として正しい政策をとっていない のは明らかです。そうでなければこの 2ヵ国で 毎年多剤耐性(MDR)TB が増加するというこ とはあり得ません。」 インドでは、公的医療が不十分で、患者が様々 な疾患の症状にさらされます。そこで民間の医 師を過剰に受診するようになります。最近まで は、これらの医師による治療にはほとんど規制 がありませんでした。当局は、こうした医師ら が薬剤の種類や投与量を誤り、さらなる薬剤 耐性を招いていると考えています。 中国では現在人口の多くが健康保険を活用で きる状態であるにも関わらず、問題を抱えてい ます。中国の健康保険は移住先で使うことが できず、都市部に住む移民は(もっともリスク にさらされているにもかかわらず)TB 検査お よび診断が有料になります。これが診断漏れ につながります。さらに、病院は収入の大半 を薬の販売から得ているため、薬剤の不正投 与または過剰投与が起こりがちです。 その結果、各国で MDR-TB が急増しています。 インドでは、2009 年に確認された件数が 1,660 件であったのに対して、2013 年には 25,000 件 に増加しています。しかしこの数は WHO が推 計する実際の年間件数である 62,000 件を大き く下回っています。WHO が推計する中国での 年間件数(未報告含む)は 54,000 例で、イン ドよりやや少ないですが、2013 年に報告され たのは約 3000 件でした。WHO では、MDR- TB を「健康危機」と呼び、Kumar 氏も次のよ うに述べて同意を示しています。「薬剤耐性 TB の発生により、対応が非常に難しくなっており、 ほぼ毎日、TB 患者の治療のために奔走してい る状態です。」両国とも、問題を認識してはい ますが、改善に向けた歩みは遅々たるものです。 韓国や日本では TB の問題はかなり小さいです が、依然として問題であることには変わりませ ん。韓国の TB 罹患率は OECD 加盟国中最高 で人口 100,000 人中 97 件です。日本は 18 件 ですが、それでも他の先進国の大半と比較す ると数倍の罹患率です。WHO ではこの 2ヵ国 を中等度の結核負荷国と分類し、難しい状況 は今後も続くだろうとしています。多くの場合、 TB 菌はヒトの免疫システムによって遮断され、 潜伏、無害化します。しかし、潜伏感染の 10% は、特に免疫システムが低下すると活動 性疾患となります。韓国では、特に朝鮮戦争 のころには TB が健康上の大きな問題となりま した。また日本においても、TB はかつて死因 の最上位にありました。潜伏感染中の TB は、 長い時間をかけて活性化する場合があります。 一度活性化すると他者への感染能を持つよう になります。
  • 15. 14 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 特に韓国では、死亡率は低下しているものの、 発症率は変わらず、それどころかこの 10 年間 で増加しています。これは 1995 年から 2010 年にかけて TB への関心が薄れたことによるも のです。2011 年には TB 対策の予算が 4 倍に 増額されました。これらの国々では NCD の高 負荷国としての対策も必要ですが、現在進行 形の TB 問題も無視できるレベルのものではあ りません。 オーストラリアではまた問題が異なります。TB 患者数は、1980 年代以降人口 100,000 人中 7 ~ 8 件で低いまま推移しており、罹患者は主 に移民とアボリジニに限られています。そのた めオーストラリアではハイリスクグループへの 対応に焦点が当てられ、事前入国審査におけ るスクリーニングを強化しています。 インド、およびインドほどではないにせよ中国 でも、既存の疾患対策が必要とされますが、 富裕国でもやはり、疾患の蔓延を防ぐために 用心を怠らないようにしなければなりません。 医療で重要なのは測定結果です。2012 年以 降の WHO の死亡率推計によれば、本調査対 象の 5ヵ国において、精神疾患による直接的 な負荷は小さいとされています(図 9)。精神 疾患患者の死亡に関しては、ほぼすべてがア ルコールと薬物乱用によるものとなっていま す。なお中毒はこの調査結果においては、精 神疾患のサブカテゴリ―に分類されています。 精神疾患による死亡率が低いのは、データの 分類のしかたによって一部の問題の取り扱い が曖昧になっているからです。例えば自殺は、 各国で分類のされ方が異なっています。 疾患の性質もまたデータに影響します。精神 疾患の多くは若年齢で発症し、死に至ることは ないものの、回復には長期間を要します。障 害生存年数(YLD)に着目すると、死亡率と は大きく異なる様相が浮かび上がります。調 査対象の 5ヵ国では YLD の 20% ~ 30% は 精神疾患によるもので、中でも鬱による負担 が最も深刻です。DALY は、YLD と早死によ り失われた年数を調整して算出された値で、2 つの要素の間を取った値になります。 DALY と YLD は、死亡率と共に医療負担も測 定するために 1990 年代に導入されました。こ れによって、これまでほとんど認知されてこな かったメンタルヘルスの問題にも注目が集まる ようになりました。 数値的な変化にも関わらず、メルボルン大学 アジア・オーストラリア・メンタルヘルス部長 である Chee Ng 教授は、メンタルヘルスに関 する議論は困難であるとの認識を示したうえで、 「一般的に言ってメンタルヘルスについての議 論は、癌や心血管疾患といった問題に比べて 興味が持たれにくく避けられがちです」と述べ、 次のように続けています。「目の前に問題が生 じていたとしても、政治家や一般市民の関心 をこの問題に向けさせることは非常に困難でし た。」同様に、インドの Srinath Reddy 博士も 次のように述べています。「精神疾患は重要な 問題です。この問題は長年にわたって公にさ れてきませんでしたが、散発的に実施される 調査からは、危険性が高まっていることが示さ れていました。」 中国やインドの状況は厳しく、精神疾患の治 療はほとんど存在せず、治療の水準も非常に 低くなっています。2012年のランセット誌では、 1 億 7300 万人が診断可能な精神疾患状態に あり、うち 1 億 5800 万人は全く治療を受けて いない状態だと報じられました。中国の精神 科医の数は人口 50 万人に対し 1 人未満です。 精神疾患:長く放置されてきたNCDが今 注目されています
  • 16. 15© The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 公式には人口 10 万人に対して 1.5 人の精神 科医がいることになっていますが、国家資格 等を有しているのは全体の 5 分の 1 にすぎま せん。一方インドでは、人口 10 万人あたりの 精神科医の人数はわずか 0.3 人にすぎません。 また心理学者は 200 万人に 1 人です 10 。施 設における精神疾患治療は、さらに不安な状 態です。ヒューマンライツウォッチが最近発表 した、インドの 24 の女性患者用精神科病院 についての報告のタイトルは「動物よりひどい 扱い」で、その実態を正確に示すものでした。 日本や韓国における精神疾患の治療の難しさ は、これとはまた異なります。精神疾患患者 は病院ではなく、地域社会で治療を受けるべ きだというのが現在の国際的なコンセンサス です。すなわち、身体的な症状や心身の状態 に対する医学的治療よりも、患者を医学的、 社会的にサポートし、雇用サービスを提供す ることで、統合的な支援策を提供し、「回復」 を促すという考え方です。この場合の「回復」 とは、患者自身が、一般社会の中で意義を 感じられる人生を送れるようになる状態を指し ます。 日本や韓国では、従来の精神科医の管理下で 行う医療施設をベースにした「医療モデル」 から、地域社会をベースにした「回復モデル」 へ変化しつつあります。日本では精神病院の ベッド数が徐々に減少しているとはいえ、人口 1000 人当たり2.7 床というのは、OECD 加盟 国中で最多で、日本の次にベッド数が多い国 と比べて 60% も多く、加盟国平均の 4 倍超 になります。対照的に韓国ではこの 20 年間で ベッド数が 3 倍以上に増え、OECD は韓国で は入院が過度に長期化し、また強制的な入院 が行われているとして批判しています 11 。 Ng 教授によれば、オーストラリアは比較的好 ましい状況にあるものの、依然として課題は多 いとした上で、次のように述べています。「オー ストラリアではメンタルヘルスのサポートシス テムが全土に行きわたっており、良質なメンタ ルヘルスサポート、投薬、病院での医療サー ビスを受けやすくなっています。同時に人々の 健康増進や病気予防の活動も行われていま す。」また同国では、新しい、地域社会ベース の治療プログラムの取り組みとして、メンタル ヘルスとソーシャルサービスの統合、および関 係者間の協力体制の構築などが実践されてい ます。しかし Ng 氏は「メンタルヘルスによる 医療負担の増加対策は今後も続きます」と述 べています。 このように多くの国で精神疾患の治療が問題 になっているにもかかわらず、同氏をはじめ、 他のインタビュー回答者はその理由を楽観的 にとらえています。各国の政府はこの問題への 取り組みの必要性を認識しており、中国、イン ド、日本では大規模な改革が最近になって発 表され、開始されています。 Reddy 博士は、最近のインドでの改革を前向 きにとらえていますが、「患者の登録は単なる 枠組みに過ぎず、実行力を伴っていません。 精神科医の数は依然として大きく不足している し、心理学者その他の専門家も足りていませ ん」と警告しています。富裕国といえどもこう した問題がないわけではありません。Ng 教授 は「進歩はしているが、変化には時間がかか ります」と述べています。 図 9:精神疾患は知らぬが仏? 2012 年の精神疾患負担(指標別) オーストラリア 中国 インド 日本 韓国 死亡 1% 0% 0% 0% 0% DALY 13% 9% 6% 8% 14% YLD 25% 27% 22% 20% 30% 出典:WHO
  • 17. 16 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 NCD の増加に関する懸念の背景には、従来の 救急治療と短期治療に重点を置いてきた多く の医療制度に対して、この疾患がある種の課 題を突き付けているという認識があります。多 くの NCD は長期的な管理を必要としており、 それが生涯続く可能性もあります。Srinath Reddy 博士は、そのような患者の治療を効果 的に行うには、医療の「大改革が必要になる」 と指摘しています。 予防と医療行為を統合したシステムとは、患者 の権利を中心に据え、プライマリーケア担当者 を介して組織的に行うものであり、NCD の管 理に著しい効果をもたらすものです。さらに、 こうした効果的なシステムの基本は、医療技術 よりもその戦略を中心に展開されるため、国民 所得に関わらず、どこの国でもあまり変わりま せん。国際対癌連合の次期会長である Sanchia Aranda 教授は「専門職による医療制度の下で は、だれもが大成功につながる新しいことをし たがります」と述べて、次のように続けます。「し かし、既知のことを体系的に適用させていくこ とで改善を図ることは可能なのです。目新しい ものにこだわる必要はありません。」 予防策 疾患予防が重要だと言うのは簡単ですが、実 際に予防を行うのは簡単ではありません。疾患 予防は健康的な選択についての教育から始ま ります。しかし渋谷教授は、社会的環境的要因 に照らして「個人の生活習慣を変えることは非 常に難しい」と指摘します。そのため、他の戦 略が注目を集めることがよくあります。Srinath Reddy 博士は、予防策は様々な反応を加味し て作成されることが必要だとして次のように述 べています。「人口集団を対象とした調査によっ て、多くの効果的な予防策を実施可能です。 調 査 に は そ れ ほど費 用 は か かりませ ん 」 好ましい状態とは 2 「Population prevention(対象人口全体での予 防策)」、すなわち不健康な生活習慣の選択を 抑制するための法や規制の整備、課税などに も費用はそれほどかかりません。ただしこうし た政策には規制を伴うため、市民の抵抗にあ うことも考えられます。いずれの予防策も、対 象人口集団が変化の必要性を認識していない 限りはうまくいきません。したがって効果的な 予防策には、例えば、新たな法整備があった とき、それを自己の選択を邪魔するものではな く、健康的な生活につながるものとして肯定的 にとらえることができるような意識の転換が必 要となります。 医療アクセス 医療アクセスは包括的なものであることが必要 です。本研究から、インドと中国では国内の 医療アクセスにおいて、とくに農村部で顕著な 問題を抱えていることが明らかになりました。 両国では医療の機会均等のための取り組みを 行ってきましたが、現実は目的の達成には及 ばず、困難は続いています。また、経済発展 の進んだ国々でも問題は存在しています。 Bennett 教授によれば、医療サービスの構造 は複雑になりがちで、患者にとっては利用しづ らいものであるとのことです。同氏は、こうし た構造的な複雑さによってサービスの利用が 困難になり「適時に、適切な場所で、適切な 治療を受けること」が難しくなっていると指摘 します。 患者中心の医療 効果的な NCD 管理においては、患者は治療 のパートナーであり、単なる治療の受益者で はないというのが共通の認識となっています。 カイザーパーマネンテによるピラミッド構造 (図 10)では、NCD 患者の 70% から 80% は、
  • 18. 17© The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 医療従事者を時折受診するだけの、自己管理 型のサポートを受けていると推測されていま す。集中的な医療サービスを必要とするのは、 複雑な合併症を伴う患者だけです。アジア糖 尿 病 財 団 CEO である Juliana Chan 教 授 は、 その理由は単純であるとして次のように述べて います。「糖尿病患者が担当医師を受診するの は年に 3 ~ 4 回のみ、その内容は 1 時間の治 療だけで、患者はその後の自己管理について の指導を受け、治療スタッフからのサポートを 受けます。」さらに、国際患者団体連合会長で ある Kin-ping Tsang 氏は「医療サービスのあ らゆる場面において、患者が関与しなくてはな りません。これを怠った場合、医師も政府も患 者のニーズや嗜好を把握することができませ ん」と述べています。 患者を中心とした治療という原則は広く受け入 れられていますが、この原則は、患者にも医 師にも行動上の変化を求めるものであり、現 実的には困難である場合もあります。Tsang 氏は、患者が自らの治療における「パートナー であり、利害関係者である」ことを自覚しなけ ればならないと述べています。そのためには さらなる教育が必要となります。Ali 博士は「健 康に関する教育と知識はそれだけで変化をも たらすものではありません。自分の病気につ いて知ることも 1 つですが、バランスの良い食 生活や運動など健康に良い生活習慣を取り入 れて生き方を変える意義を感じ意欲を持つこ と、薬物療法の指示を守り、決められた通り 医療機関へ来院することも必要です」と付け加 えます。WHO 西太平洋地域の保健センター開 発所長の Vivian Lin 博士は、患者により一層 真剣になってもらうには、文化的な変化も必 要であると指摘して次のように述べています。 「多くの国では、病気になると治療を望みます が、自身の健康状態を良好に保つことについ て、必ずしも強い関心を持っているわけではあ りません。病気予防を生活上の優先事項と位 置付けてはいないのです。」 Tsang 氏によれば、特に医師や専門家が患者 をパートナーとして扱うことが必要で、このよう な意識変化はアジア諸国では特に難しいとのこ とで、次のようにも述べています。「これらの国々 では、医師や医療専門家は『王様』であると いう文化があります。患者は他の利害関係者と も同等の立場にはなく、力関係としては垂直構 造にあります。つまり患者の立場は低いのです。 こうした意識を変える必要があります。」 患者中心の医療では、病気治療だけを切り離し て考えるのではなく、医学的な側面はもちろん、 時には患者の社会生活にまで広く目を向けて、 総合的観点から患者のニーズを集約します。 プライマリーケアの重点化 本研究の調査対象となった 5ヵ国で、効果的 で行き届いた医療を提供するには、NCD 管理 および医療制度全体において、プライマリー ケアに力を入れることが重要です。うまくいけ ば、適時の教育と早期発見はもちろん、疾患 管理全体のサポートも可能になります。 しかしこれはすんなり達成できるとは限りませ ん。医師は常に NCD 患者のニーズを把握して いるわけではありませんし、医療制度から構造 的な問題が生じることもあります。調査対象国 の一部では、一般に開業医がゲートキーパー としての役割を与えられておらず、患者やその 家族・友人などは開業医の医療サービスを高 く評価しない傾向があります。日本では開業医 は専門家と認識すらされていません。Lin 博士 はこうした状況下では、「プライマリーケア担 当者を育て、地域社会にプライマリーケアを 良質の医療だと認識させることは簡単なことで はない」と述べています。 症例 管理 疾病管理 サポート付自己管理 人口集団全体の予防策 出典:NHS、バーミンガム大学 重度の合併症患者 高リスク患者 慢性疾患患者の 70%∼80% 図 10 カイザーのピラミッド構造図: 慢性疾患治療の3段構造
  • 19. 18 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 医師主導型ではない医療をプライマリーケア で提供できれば、事態はより簡単に進む可能 性があります。Chan 教授は「医者は、看護師 など他の医療従事者へ上手く知識を伝達し、 彼らをサポートしなければなりません。看護師 にかかる費用は平均 4 分の 1 で済むのです」 と述べ、それによって、医師の手間が省け、 複雑な症例への対処がしやすくなるとしていま す。Srinath 博士は簡単なテクノロジーの導入 によってより良いプライマリーケアが実現でき ると考え、次のように述べています。「医師が プライマリーケアに関わることは必要かもしれ ませんが、全てを医師がする必要はありませ ん。テクノロジーを利用することで、治療の最 前線にいる医療従事者が代行できます。しか しこのような変化は、自身の立場を心配する医 師からの抵抗に遭う可能性があります。 NCD 対策を超えて 医療制度改革の必要性は、NCD 負担の増加か ら生じる場合もありますが、NCD に対するアプ ローチは一般的に感染症を含むあらゆる疾患 対策に効果的であることから、医療制度全般 の向上に役立つ可能性が高くなります。日本 エイズ学会会長の岩本愛吉教授は、アジアの 多くの国で蔓延する HIV/AIDS 対策の難しさの 1 つに「多くの国の医療制度が、抗生物質の 投与によって 5 日以内に治癒させる、急性感 染症に重点を置いた制度となっている」ことが 挙げられると述べ、慢性感染症には重きが置 かれていないことを指摘しています。同様に、 Kumar 氏は、TB 対策の最大の弱点は行き過 ぎた医師中心、医学中心の制度にあると考え ており、「私たちに必要なのは、TB への考え 方を根本から変え医学的な要素のみにとどまら ず、人間中心、患者中心の解決策を見出すこ とです」と述べています。 Ali 氏は、このような医療制度は実現可能であ るとしていますが、「これらの国々が抱えている、 通常の 2 倍、3 倍もの疾病負担を効果的に管 理するには、その国の医療制度全体をより一 元的に考えること」の方が、著しく増加してい る NCD 対策の費用を賄うという理由で他の疾 患の予算配分を奪うことよりも、必要であると 述べています。 最も変化を必要とする地域 NCD に適した医療制度では、個々の要素それ ぞれも有効ですが、それらを組み合わせて使 うことが最も効果的であると証明されています。 「予防策、長期療養、医療などの一元化を図る ことが必要です」と渋谷教授は述べています。 本研究の調査対象国である 5ヵ国の医療制度 を検討したところ、このような理想的な改革を 遂げた国はありませんでした。本セクションで は、各国が直面する課題を検討していきます。 オーストラリア オーストラリアは、世界で最も平均寿命が長い 国の 1 つであるとともに、慢性疾患が蔓延し ている国でもあります。住民の 77% が 1 つ以 上の慢性疾患を抱えています。オーストラリア には、メディケアと呼ばれる国民皆保険制度、 プライマリーケアの重視、慢性および急性疾 患患者どちらにも効果的な治療を施す総合病 院制度など、この国の疾患負担の現状を管理 するための、貴重な医療資源が各種揃ってい ます。医療制度は国の経済を圧迫するもので はなく、医療費は GDP の 11.5% で OECD 加 盟国平均をわずかに上回る程度です。しかし、 いくつかの顕著な弱点もあり、近年対策が講じ られています。 医療の分断 Bennett 教授は、オーストラリアの医療制度が 直面する最も大きな課題は、地域社会、自宅、 または病院のいずれで行われる医療について、 それらの要素を連携させることにあると指摘し、 「患者にとって必要なのは、複雑な制度を利用 する際のサポートと、治療の連携です」と述 べています。 オーストラリアの課題の一部は、医療のコーディ ネートを本質的に難しくしている制度上の区分 に由来するものです。国が全体の保健政策お よびメディケアに関する財政的な責任を有して おり、後者には一般開業医および総合病院以 外の専門医の受診を補助するメディケア給付制 度(MBS)、および国民医薬品給付制度(PBS) があります。各州は、公衆衛生と公立病院の 管理を担当し、連邦政府と州政府の両方が病 院の財政的な支援を担っています。
  • 20. 19© The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 医療が分断されるもう1 つの原因は、患者より も医療提供者を過度に重視した制度設計にあ ります。これが患者の混乱を招き、予防策に費 やす予算が削られます。これは先進国の多くに 共通した問題です。2009 年、政府の要請で実 施されたオーストラリアの医療制度に関する大 規模調査によってこの問題が注目されました。 報告書では次のように述べられています。「概 して患者はあちこちを回って複数の医療専門家 を自ら探して受診しなければならず、チームと して機能し、ともに治療にあたり、患者のニー ズ全体を把握した医療を提供するような医療専 門家集団にかかることはできない」12 。この調 査の実行委員会会長の Bennett 教授は、これ は現在のオーストラリアでも依然として変わっ ていないと述べています。 政治的コンセンサスの欠如 オーストラリアでは、2009 年度に発表されたレ ポートによって国内の医療改革に関する大きな 議論が巻き起こり、2011 年に国家医療改革合 意に達しました。医療統合の強化を目的に行 われたこの合意によって、医療サービスの提供 と統合の促進を目指した各種団体が設立されま した。「Australian National Preventative Health Agency(全国予防衛生局)」はその 1 つです。 しかし 2013 年の政権交代によって、この合意 の多くが縮小または中止となりました。Bennett 教授は、「医療改革者が挑戦することで、永続 的な変化が生み出される」と指摘します。この 問題は、最善策についての政治家の合意が得 られるまでなくならないでしょう。 中国 中国政府は近年大規模な医療改革を実施し、 多くの人が最低限必要な医療を受けることが できるようになりました。しかし、従来からあ るいくつかの問題によって、医療提供者はこの 国の高い NCD 負担に効果的に対応することが できなくなっています。 プライマリーケアの問題 中国の医療改革の中心は、地域の医療セン ターや診療所、地域の国立病院の活用拡大を 通じて、プライマリーケアを医療の中心に据え ることでした。2009 年~ 2011 年およびそれ 以降に中国政府は 471.5 億人民元(当時で約 74 億ドル)を村の診療所(25,000 件)、地域 保健センター(2,000 件以上)、および各地に ある国立病院(地域保健センターとほぼ同数) のインフラ整備に投資しました 13 。 しかし改革開始以来、プライマリーケア従事者 がゲートキーパー、コーディネーターとしての 役割を担っている事例はありません。加えて、 三次医療を提供する都市部の大病院を受診す る人の数は大幅に増えたものの、地域のプラ イマリーケア利用者数には変化がなく、一次 医療の提供者である国立病院は十分に活用さ れていません 14 。 こうした施設利用の不均衡は患者が高品質の 医療を求めた結果です。Liu 氏によれば、大 都市の医療制度では、最高の病院で最高の医 師を雇い、長期にわたって、医師らが地域社 会をベースとした医療を行うことを阻んできま した。「良い医師が大都市の病院に閉じ込めら れ、地域社会で良質の医療を受けることがで きなくなった場合、多くの人は入院や外来受 診に限らず、経過観察や薬の処方のためだけ でも、大病院へ行く方を選ぶでしょう」と同氏 は述べています。その結果、待たされた挙句 診察は短時間で、しかも担当医師も過労状態 であるということになり、患者の不満が生まれ ます。医師は 1 日 70 人から 100 人もの患者 を診ることもあります 15 。「診療所では、ほとん どのスタッフが患者に飢えています」と Liu 氏 は述べ、さらに「診療所には患者がいないの です」と続けます。 その他の原因として、経済的な問題が挙げら れます。中国では現在大部分の国民が何らか の医療保険を利用していますが、Liu 氏によれ ば、8 億超の農村部の住民や無職の都市生活 者の保険の多くは入院治療を対象としたものと なっています。 財政問題もまた、プライマリーケアとその他の ケアの線引きをあいまいにする原因となってい ます。病院収入のうち国の補助金は 9%しかあ りません。不足額の多くは薬の売り上げや治療 費で穴埋めしています。この結果、病院による 薬の過剰処方や、高額の医療機器の利用、地 域社会ベースの外来診療で行った方がコスト パフォーマンスが高いはずの医療の提供など が行われています 16 。
  • 21. 20 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 Liu 氏はこれを、とくに NCD に関して深刻な 問題ととらえ、「慢性疾患に必要な医療提供に は診療所が最も適していますが、現在多くの 患者は、定期検診や薬の処方にも大病院を受 診しています」と述べ、次のように続けていま す。「病院中心の医療から、地域社会をベース にした医療サービスシステムの構築という、大 きな変化が必要です。」 高額の医療費 医療保険の適用拡大によって、患者側の医療 費負担は軽減されましたが、これによって医療 費問題が解決されたわけではありません。全 ての主要な医療保険プログラムでは、患者負 担額はかなりの額に上り、中国の独立市場調 査期間である Horizon Research Consultancy (零点研究咨询集团)が 2013 年に行った調査 では、回答者の 87% が改革によって医療費が 以前よりも高くなったと回答しています 17 。 極端に高額の医療費負担(可処分所得から食 費を引いた額の 40% 超を医療費に費やすこと と定義)を強いられた患者の割合は、対人口 比で年間 13% 前後を維持していたという結果 が、多数の学術研究から明らかにされています。 このうちの 1 つである WHO の広報誌では、中 国人「非貧困層」全体の 7.5% が、医療費を 理由に「貧困層」になっていたことが示されて います。こうした費用による締め付けが、最適 な医療の提供を妨げるのは当然のことです 18 。 医師と患者の信頼関係の低下 中国では、医療問題を発端として医療従事者 と患者の協力関係が失われつつあり、疾患に 関する不満の増大につながっています。政府 の広報機関は、国営のポータルサイトを通じて 「医師と看護師の危機が、医師と患者の信頼関 係にも影響している」と報じています 19 。 この「危機」とは、政府の出した数値を反映し たものです。中国病院協会(Chinese Hospital Association)の調査によれば、中国の全病院 で起こった、医師に対する患者の年間暴力件 数は、2008 年には 20.6 件だったのに対して 2012 年には 27.3 件に増加しています。 暴力は氷山の一角にすぎません。2013 年 11 月に「中国青年報」が中国全土で数十万人を 対象に行った意識調査では、回答者の 67% が医師の診断や、医師の推奨する治療法を信 頼していないと答えていることが明らかになり ました 20 。 政府は医療制度がいまだ脆弱なものであるこ とを認識しており、プライマリーケアの充実な どといった、さらなる変化を模索してきました。 しかし国内のニーズに対応した医療制度を構 築するには、医療の供給問題と同じように、 患者の不満や認識についても取り組む必要が あります 21 。 インド インドには設備の整った素晴らしい医療施設 があります。それらの多くは、貧困層も富裕層 も同様に受けることのできる、効果的で、質 の高い専門医による治療の提供方法の研究に 関する国際的な症例研究でも取り上げられる 施設です。ナラヤナ・フルダラヤ心臓病院、ア ラヴィンド・アイケアシステム、およびアポロ グループ傘下の 3 つのリーチホスピタルでは、 革新的でコストパフォーマンスの高い医療を取 り入れ、相互支援方式も採用することで、収 入に関係なく、様々な患者への医療を幅広く 提供しています。 ただしこれらの病院で見られる成功例はインド では例外的であり、この国の医療全体でみる と、疾病負担への対応に苦しんでいます。イン ドが抱える問題の鍵となるのは医師不足と高 額な医療費、NCD にその中心が移りつつある 疫学的な変化であり、これらがこの国の医療 における重要な課題となっています。 低料金で受けられる医療の不足 インド政府計画委員会の推計によれば、公的 な医療制度は現在この国のほんの一部にしか 行き届いておらず、2008 年には医師 60 万人、 看護師100万人が不足していたということです。 人口 1000 人に対して医師はわずか 0.6 人、ベッ ド数は 0.7 床で、隣国であり、同じく新興市場 国でもある中国(人口 1000 人に対して医師 1.5 人、ベッド数2.6床)も遙かに下回っていますが、 こうした数値は当然の結果と言えます。医療従 事者は都市部に集中し、この国の人口の大部 分が住む農村部における医療の不足を招いて います。利用できる医療サービスも、インド人 の収入から考えると安いものではありません。
  • 22. 21© The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 EIU の推計では、2015 年の国民一人当たりの 医療費総計はわずか 72ドルですが、その 4 分 の 3 は民間資本に頼っています。この民間資 本の多く(82%;2012 年 WHO 調べ)は患者 の自己負担であり、インド政府の見積もりによ れば、この莫大な医療費によって、毎年インド 国民の 5% に当たる 6300 万人が貧困に陥って いるとのことです 22 。 EIU のデータによれば、かかりつけ医による簡 易健康診断でさえ、個人の 1ヵ月の可処分所 得の 36% に相当するほど高額で、これが病気 予防と早期診断を妨げていることが暗に示され ています。このことが慢性疾患管理を孤立させ ているのです。Sadikot 博士は「インドでは、 糖尿病患者数が 6200 万人に達していますが、 その半数は自身が糖尿病であることにも気が 付いていません」と指摘します。 NCD に対する準備不足 NCD は現在インドの疾病負担の半分以上を占 めていますが、この問題に対する医療制度の 準備が整っていません。インド政府は「新国 家保健政策」の草案を作成し、その中で「非 感染症の増加に対する取り組みは初期段階(原 文より)にあり、国内全土に取り組みを行きわ たらせるには、非常に長い時間がかかる」と 述べています。草案ではメンタルヘルスに関し て「残念ながら放置状態にある」と率直に認 めています 23 。 Preetha Reddy 博士はそれに同意した上で、 現行の医療制度は急性期の一時的な治療を重 視したものであると指摘し、「プライマリーケア レベルでの予防医療が非常に弱く、保険の対 象となるのも、主として入院治療です」と述べ、 次のように続けています。「慢性疾患のための 長期療養施設の建設も始まろうとしているとこ ろですが、その大部分はやはり透析など一時 的な治療用の施設です。」 Preetha Reddy 博士によれば、二次医療と三 次医療の隔たりの一部は民間セクターの協力 によって埋められるかもしれないとのことです。 ただし高額な医療費が国民にのしかかり、有 資格の医師や看護師も不足しています。つまり 政府には、医療の拡大のための財源を探し出 す必要があるのです。 インド政府は財源確保の必要性を認識し、国 の医療費予算をこれまでの 2 倍にあたる、 GDP の約 2.5% に引き上げることを発表し、基 本的権利の中に医療を含めると宣言することも 検討していました 24 。しかし、緊縮策の実施中 であった政府は、財源確保の方法については 明言していませんでした。結局、医療費予算 は前年度比 20% の削減となりました。 日本 日本の医療制度は、1961 年の国民皆保険制 度開始以来成功してきたことは、紛れもない 事実です。世界一の長寿国であるだけでなく、 GDP に占める医療費の割合も OECD 加盟国平 均と同程度の 10.5% となっています。このよう な記録にもかかわらず、懸念は増大していま す。2010 年の調査では回答者の 74% が、自 身または家族が、必要な際に高品質の医療を 受けられるかどうかについて、「ある程度」ま たは「非常に」不安に思っているということが 明らかになりました 25 。渋谷教授は、国民皆 保険制度ができたのは、若年人口も多く、経 済発展も著しかった 50 年前のことで、「今、 制度全体の見直しが必要になっている」と指 摘します。 持続可能な財政 日本の医療費は過去 5 年間で急増しており、 2010年には対GDP比で9.6%だったのに対し、 2015年には10.5%となっています。国内のデー タによれば、1990 年以来の総医療費増加の原 因の半分は高齢化です。また、EIU の予測に よれば、今後も医療費は膨らみ続けるとみら れていますが、その速度は緩やかになると予 想されます 26 。 日本の医療の多くは社会保障費でまかなわれ ていますが、その 10% は国家予算であり、長 年にわたる経済停滞後のコスト増を考えると、 好ましくない状況です 27 。EIU によれば、日本 の国債発行額は対 GDP 比 234% にも上り、 OECD 加盟国中最高でギリシャ(171%)をも 大きく上回っています。また、近年の改革では 医療費の民間負担を増加させる試みもなされ ていますが、より効果的な医療制度もまた必 要とされています。
  • 23. 22 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 医療提供者によるガバナンス 伝統的に日本政府は、医療政策の主な柱とし て診療報酬を管理し、ガバナンスについては 医療提供者に任せていました。その結果、医 師を頂点とした医療環境となり、必ずしも理想 的な医療が提供されているとは言い難い状況 です 28 。 日本の医師の数は OECD 標準に比べて少なく (人口 1000 人に対し 2.2 人)、この原因の一部 には、医師の数を増やすことに対する、医師 会の強固な反対があります。しかし日本人 1 人当たりの年間病院受診回数は 14 回(1 か月 に 1 回強)であり、病院受診率が最も高い国 の 1 つです。こうしたことが長い待ち時間や短 時間の診察の原因となり、NCD に見られがち な複雑な症例に費やす時間がほとんど取れな くなります。放射線医師や糖尿病専門医など、 特定の専門医が不足している他、看護師や高 齢者介護士が特に不足しているため、これら を埋め合わせるために、政府が介護ロボット の研究支援に乗り出しています 29 。 病院中心の制度 日本の医療制度は他の先進国と比べても、病 院への依存度が極めて高い制度となっていま す。調査によると、2014 年の救急病院ベッド 数は人口 1000 人当たり 12.7 床で、OECD 加 盟国中最も多く、平均の約 3 倍です。また患 者の入院期間も長く、平均 18.5 日です。これ も OECD 加盟国中最も多く平均の約 3 倍です。 さらに高齢化がこうした状況に拍車をかけてい ます。日本政府はここ 10 年近く、高齢者のた めの長期介護施設の建設を進めていますが、 依然として高齢者の長期療養先は病院で、費 用も高くつきます。こうした状況に加えて、各 種疾患治療における入院期間が、軽度の場合 も含めて国際標準よりも長い傾向があり、これ によって、皮肉な状況が生まれています。ベッ ド数が多いにもかかわらず、ベッド不足のた めに救急患者の搬送先が見つからないという 状況です。 大人数の入院患者を抱えているにもかかわら ず、実際の病院業務の多くは外来診療です。 治療を受けるのに紹介状が必要になることは ありません。また総合病院グループの診療所 では、従来からプライマリーケアと二次医療、 三次医療の線引きがあいまいになっています。 実際、国内の大手民間総合病院の多くは、小 規模な診療所からスタートし、徐々に規模を拡 大して、競争相手である公立病院と肩を並べる までになりました 30 。日本ではまた、開業医は 専門医として認識されていないため、開業医 がゲートキーパーとなることや、治療のコー ディネーター役を担うことがないのです 31 。 OECD が最近発表した報告書では、日本の高 齢化対策にはプライマリーケアが必須であると して、次のように述べています。「患者の健康 を保ち、経済的にも社会的にも活動的な生活 を維持させるには、1 つ以上の慢性疾患を抱 える患者に対して、先を見据えた、調整の行 き届いた、個に応じた医療を提供する医療制 度が必要である。これらの課題達成のための 取り組みの中心となるのがプライマリーケアの 強化である」32 。例えば、開業医による一般診 療が不十分なため、日本では高血圧の診断率 が低く、診断を受けた患者の疾患管理が徹底 されていないと考えられます 33 。 次なる段階 政府は 2025 年の医療サービスを見据えた、 一連の医療制度改革案を導入しました。この 改革案では、特に予防の役割や医療の統合の 推進、ならびに高齢者に対する医療およびソー シャルケアにより重きが置かれています。 しかしそのロードマップは明らかにはされてお らず、「法案は通ったものの、誰が、何を、ど のように進めていくのかという大きな疑問が 残っています。『勤務医が開業するということ か?』『開業医が何もかもを背負うのか、それ とも専門医を雇うのか?』『長期療養はだれが 担うのか?』などといった疑問への回答が必要 ですが、これは非常に政治的なプロセスにな ります」と渋谷教授は指摘します。
  • 24. 23© The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 韓国 韓国は包括的な国民皆保険制度を非常に早く 確立しました。1989 年に国民皆保険制度が始 まり、その後、国民健康保険(NHI)公団が 設立されました。治療は無償ではなく外来の 自己負担額は 30% ~ 60% です。ただし低所 得者の負担額は低く、年間医療費の上限も定 められ、個人の負担額が莫大な額にならない ようにしています。この結果は概ね良好で、本 研究の調査対象 5ヵ国の中でも、近年の平均 寿命の延びは最高になっています。 こうした取り組みは NCD にも対応しています。 韓国はアジア太平洋地域の中で、癌管理のパ イオニアです。同様に、主な NCD についての 全国的な検診もかなり以前から行われている と、Changbae Chun 氏は述べています。にも かかわらず、急速に進行する高齢化と NCD の 負担増への対策によって、韓国はいくつかの 重要な課題に直面しています。 医師を頂点とした制度設計 韓国の医療制度における課題の多くは日本が 抱える課題と同様です。医師の数(人口 1000 人に対して 1.7 人)は、韓国医師会からの圧 力により、国際標準からみて低い水準を維持し ています。これによって診察時間が短くなって います。1 人の医師が年間に診る患者の数は 平均 7000 人以上で、OECD 加盟国の中でも 最高レベルであり、平均の 3 倍です 34 。同様に、 治療の大部分は病院を中心に行われ、診療所 と病院の線引きがあいまいになっていますが、 診療所が救急医療を行うことはまれです。入 院期間は平均 17.5 日で、OECD の加盟国平均 の 2 倍強であり、病院中心の治療が行われて いることを反映しています。またこの国の、 「サービスに対する対価」の考えに基づく資金 調達モデルも原因の 1 つとなっています。 Chun 氏によれば、NCD 管理にはプライマリー ケアの大改革が求められているとのことです。 「現在多くの患者が NCD 治療のために病院に 通います。私たちに必要なのは、プライマリー ケアに重きを置いた医療プログラムです」。残 念ながら、既に区別が曖昧になっている医療 制度においては、プライマリーケアを担う医師 にはゲートキーパーとしての役割がなく、プラ イマリーケアの立場も近年低下しています。さ らに、プライマリーケアで受けられる医療を質 の悪いものとみなし、満足できるレベルに無 いと考えている患者からは、支持が得られてい ません 35 。大病院の外来に患者が集まるのも、 プライマリーケアによるゲートキーパーシステ ムに逆行しています 36 。 そのため、NCD 治療のために必要でもない入 院が増加する傾向にあります。例えば OECD の報告書では、韓国は COPD や喘息による不 必要な入院率が最も高い国であるとされてお り、しかも通常は地域社会ベースでの管理が 可能であるはずの高血圧による入院も着実に 増加し、現在 OECD 加盟国中第 4 位の入院率 であると報告されています 37 。 医療の量から質への転換の必要性 国民皆保険制度ができてから比較的日が浅いこ とを考慮すると、韓国の医療制度は現在進行 形で形成されつつあると言えます。現在進めら れている NHI の保険範囲の拡大はコスト増に つながっています。GDP に占める医療費の割 合は OECD の加盟国平均を下回っていますが、 2002 年から 2012 年の総医療費は毎年 8% 増 加しており、この増加率は OECD 加盟国平均 の 2 倍です。現政権では、将来を見据えて、癌、 心疾患、脳卒中対策に、さらに多くの予算を 費やす政策をとっています。 しかし、治療転帰についてのモニタリング、さ らには患者の安全性に関するモニタリングです らも、他の先進諸国と比べて十分ではなく、 懸念が生じる原因となっています。例えば、韓 国の各医療機関では最新の医療機器を取り入 れていますが、心臓発作による入院後 30 日以 内に死亡する患者の割合は、他の OECD 加盟 国と比べて非常に高くなっています 38 。 質の高い医療は患者の利益になるだけでなく、 医療提供者の利益にもなります。Chun 氏によ れば、韓国国民は、医療の受益者としての優 れた教育を受けており、病院や診療所を選ぶ 際は、韓国健康保険審査評価院によるオンラ インサービスを使って、品質チェックをする人 が増えているとのことです。
  • 25. 24 © The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 低すぎるメンタルヘルスへの関心 本研究の調査対象となった 5ヵ国すべてで、 精神疾患患者への治療が不十分であることが 明らかになりましたが、特に韓国ではそれが 顕著でした。これは自殺率からも明らかであり、 国内の統計によれば、自殺は、癌、心臓疾患、 脳卒中に次ぐ死因の第 4 位です。OECD の調 査によれば、自殺をする人の割合は人口 10 万人中 28.4 人で、世界第 3 位です。自殺者数 は 2000 年から 2011 年までに約 2 倍に増加し ています。 障害生存年数(YLD)全体に占める精神疾患 の割合は 30% で、本研究における他の調査 対象国の割合を上回っています。リスクに目を 向けた場合、アルコールはしばしば精神疾患 の原因および結果の両方に関連し、韓国の 1 人当たりの DALY が、他の 4ヵ国と比べて長 いことの原因となっています。また世界疾病負 担の研究結果から、アルコールは食事に次い で 2 番目に高い健康リスクであることが明らか になっています。 しかし韓国では、地域社会をベースにした統 合的な医療の提供よりも、長期間の入院治療 を重視した対策をとってきました。韓国は、精 神病棟への長期入院数の増加が見られる数少 ない先進国の 1 つであるだけでなく、入院患 者のおよそ 4 分の 3 は、通常は患者の家族か らの正式な要請を受けた強制的な入院です 39 。 韓国では、精神疾患対策により重点を置く必 要があることは明らかです。
  • 26. 25© The Economist Intelligence Unit Limited 2015 アジア太平洋地域における医療の展望 オーストラリア、中国、インド、日本、韓国の現状と課題 本研究の調査対象国である 5ヵ国を含めて、 いずれの国においても、増加する疾病負担に 見合う理想的な医療制度を簡単に整えてくれ る、魔法のような手段は存在しません。そこで このセクションでは、各国の様々な医療制度の 下で、現在直面している問題に対応するべく試 みられている手法、ならびにこれらの取り組み から見えてきた課題を概説します。 有効な予防策 予防可能な NCD の罹患率が増加、もしくはす でに蔓延して医療負担の大部分を占めている 国にとって、予防法に関する取り組みは非常に 魅力的なものです。ただし、人々に「健康と は何か」を伝えるだけでは有益とは言えませ ん。効果的な戦略を立てるには、より深く検討 することが必要です。 コミュニティへの拡大(韓国) ソウルの江東区では、患者が病院に行くのを ただ待つよりも、地域の保健所の活用を進め たことで、予防に成功しました。 江東区では 2007 年に、地域の健康相談所モ デル事業の展開のために、政府および関係者 の協力を得て保健所が開設されました。最終 的には区内 18 か所にある地域住民センターの うち 16 のセンターに保健所が開設されました。 各保健所の運営は看護師が担っており、30 歳 以上の住民を対象に、腹囲、血圧、血糖値、 中性脂肪、および HDL コレステロールの 5 項 目の検診を通じて NCD のリスク評価を行って います。また、看護師は健康的な食生活や生 活習慣に関する指導も行い、検査を受けた人 に地域で行っている運動のサークルや教室を 紹介し、必要に応じて医師の紹介も行ってい ます。 このような、住民の健康を地域が担うという方 法によって、従来の医療では満たされなかっ たニーズに対応できているようです。このプロ グラム開始以来、65,000 人の登録がありまし た。これは対象年齢人口の 5 分の 1 にあたり ます。検診参加者は、予防についての看護師 の指導にも耳を傾けているようです。健康相 談プログラムの登録者中 32% は、最初の 6 か 月間で高血圧が改善されたばかりでなく、体 重減も認められました。韓国では他の地域で も江東区の成功をモデルとした取り組みが試 みられています 40 。 たばこ規制(オーストラリア) オーストラリアでは長きにわたってたばこ規制 が行われており、一歩先を行く取り組みをして います。政府出資による禁煙広告キャンペー ンが始まったのは、州レベルでは 1971 年、 国全体では 1972 年でした。開始以来、常に 他国の先を行く取り組みをしており、広告禁止 と公共の場所での禁煙は、今や世界の大部分 で共通の政策となっています。 ごく最近では、たばこへのプレーンパッケージ 導入の義務(プレーンパッケージ法)が法制 化されました。ややわかりにくい名称が付い たこの法律では、たばこのパッケージにブラ ンド名の掲載を禁じ、たばこによる健康被害 に関する警告画像を入れることを義務付けて います。オーストラリアのたばこ価格はすでに 国際標準よりも高額ですが、2013 年以来 4 回にわたって、たばこへの課税を年 12.5% 引 き上げる政策がとられ、さらに値上げが続い ています。 実例に見られる変化 3