実験的短編小説です。主成分分析の概念を、全く主成分分析的に説明しないことによって、日常的感覚で理解させることを目的としました。

1. 僕がAIを
語るとき
白井 司
主成分分析篇

2. ドリップコーヒーの泡を見つめる。
泡の集まりがゆっくりと盛り上がり、プチプチと音を立てる。
キッチンの窓から差し込む朝日の中で、登り立つ湯気の一粒一粒が眩しく光る。
柔らかな香りが広がり、眠気がもたれかかる体が少し軽くなったような気がする。
「また散らかしたまま寝て」振り向くと彼女が腕を組んで立っていた。「本当にだら
しない」
軽くなったはずの体が、また重みを増して地面に張り付くような感覚を覚えた。
「朝からそんな声を出さないでほしい」僕は言った。
休日の朝くらいゆっくりコーヒーを飲みたいのに。
彼女はもう普段着に着替えていた。僕よりもずっと早くに起きたようだ。
「何度注意してもわからない。本を開いたまま伏せておくと痛むじゃない。昨日か
らそのままだったでしょ」

3. 「続きを読むからだよ」
「栞を使えばいいじゃない」
「開けたままのほうが効率がいいから」
「何それわけわかんない。だいたいね、あなたはいつもだらしなさすぎるの」
余計な言い訳が、彼女にとっては面白くないようだった。
「いつもそう、本当にだらしない」
「そういう決めつけは良くないよ」
「例えば」彼女は僕の言葉を遮るように言った。「切った爪が床に落ちてたり
する」
「それは」
「それに」彼女は言った。「ゴミ箱の外にゴミが落ちてる。投げて失敗したなら、
ちゃんと収めるべきでしょ」
「確かに」

4. 「それから」彼女は続けた。「トイレットペーパーの芯、あれ何なの。放ってお
いたら土に還るとでも思ってるわけ？ ちゃんと捨てなさいよ」
「そうだね」
「あと」彼女は止まらない。「本の読み方だってそう。一度に何冊も広げるか
ら、机の上がいっぱいになって片付かないんじゃないの」
「それは違う」僕は言った。「本を何冊も広げることで机の上がいっぱいにな
るのは事実かもしれない。でも、それは色んな本を読み比べる必要があるか
らそうしているんであって、散らかる散らからないの話じゃない」
彼女は少し息を深めに吸って、吐き出すように言った。
「とにかく、あなたはだらしないの。床にいっつも鞄を置きっぱなしだし」
僕はどうしようか少し迷ったけれど、できるだけ落ち着いた声になるように気
をつけながら話すことにした。

5. 「床に鞄が置いてあるのは出したくて出してあるわけじゃない。前に決めたよ
うに、あの鞄はラックの３番めに収めることになっている。でも、そこには今何
があるのか」
僕たちはドア越しにリビングにあるラックを見た。ラックの３段目には、彼女の
白いマフラーと手袋、ＵＦＯキャッチャーで獲得した変なぬいぐるみ、読みかけ
の雑誌数冊と箱詰めのクッキーと化粧ポーチが適当に詰め込まれている。
「僕の鞄には帰る家がない。とにかく何でもかんでも詰め込んで、それを片
付けというのはどうなのかなと思う。でもそれはそうとして、確かにゴミ箱やト
イレットペーパーの話なんかは気をつけないといけないと思う」
彼女は仕方がない、というような感じでうなずいた。
「でも」僕は続けた。「複数の本を広げることや、鞄の話はそうじゃない。いく
つかの出来事があって、それぞれ事情があって、そうなっている。だけど、君が
僕のことをだらしないと言うとき、散らかる行為をしているということが、その
根拠としているから、それらはないまぜにされてしまう」

6. 僕はつばを飲み込んだ。そういえばま
だ起きてから水分をとっていない。
「繰り返しになるけれど、今君が言っ
たたくさんの出来事は、『部屋が散ら
かる』という状態に着目してひとまと
めにされている」
彼女の眉間の皺が深くなったが、僕
は続けた。
「切った爪が床にある」「ゴミを投げっぱな
し」「トイレットペーパーの芯を捨てない」
「複数の本を広げる」「鞄を放置」という各
データの分散が最大となる軸が主成分であり、
ここでは「部屋が散らかる」、というものにな
る。
ゴミを
投げっぱなし
芯を
捨てない
切った爪が
床にある
鞄を放置
複数の
本を広げる
部屋が散らかる

7. 「ある意味でその判断は正しいのか
もしれない。僕の行為を部屋が散ら
かると判断することによって、出来事
を一つ一つ検証しなくてもよくなるか
ら。でも、物事はそう一面的じゃない。
『世の中は金だ』とか『政治家は汚
い』とか『子供は無邪気』とか、そう
いう物差しは、物事の判断を早くはす
るけど、あまりしすぎると、起こってい
る事象の本当の座標を見失って、正
しき判断できなくなるおそれがあるよ。
気をつけたほうがいい」
各データとは
差異が生じている
この情報劣化を軽減するには複数の主成分分析
をする必要がある。
情報劣化と主成分追加による計算コストはト
レードオフである。

8. 僕が言い終わると、彼女が何かをつぶやいたが、よく聞き取れなかった。
何を言ったのか聞き返そうとすると、彼女が言った。
「朝っぱらから屁理屈こね回してんじゃねえよ。部屋が散らかってる。あんた
はだらしない。片付けろ」
そう吐き捨てると彼女は部屋を出ていった。出ていき間際、バタンと大きな音
を立ててドアを閉めていった。
そういえば、僕はこのドアが閉まる音が苦手だ。だからよく半開きにしていて、
それをよく彼女にだらしないと注意されていた、ということをぼんやりと思った。

9. コーヒーを持って、リビングに行った。彼女はいない。多分ふて寝だ。
テーブルの上には、小盛りのサラダと、スマイルカットのオレンジとたまごサン
ドがきれいに並べられていた。
その横には、昨日開いて伏せたままにしてあった本がきちんと閉じられていて、
栞が刺さっていた。
栞には、豚なのか牛なのかよくわからないキャラクターが書かれていた。彼
女の手書きのようだ。
僕はコーヒーを口に含んだ。少し冷めていて、酸味が強くなっていた。
たまごサンドをひとかじりしてから、本を開いた。
目で文字を追いかけてはみても、内容が入ってこなかった。
今日は彼女とどこへ行こうか、頭の中はそのことでいっぱいだった。 （了）