沼津復活への道Pdf
- 2. ○はじめに
先日、沼津の中心市街地で商店を営む知人から「いつ店を閉鎖するか悩んでいる」という話を聞きま
した。このお店は明治初期に開業し、商業都市沼津の栄枯盛衰をそっくり体現しているような老舗中の
老舗です。沼津の中心市街地は歩いていてもいくつかのお店で事業を続けていくことが大変なんだろう
なということを容易に察してしまえる憂うべき状況であることは否定することができないようです。
そのことを裏付けるように、昨年(平成 27 年)の夏、本町まちづくり研究会が約 1 か月間に及ぶ「再発
見!ザ本町」と銘打ったイベントで行ったアンケート調査で、沼津の現状について「昔に比べ寂しくな
った」が 95.8%、「現状で満足」が 2.8%、「その他(ひどい状態との添え言葉)」が 1.4%となっていまし
た。
ついでながら、本町まちづくり研究会は本町のかつての栄光を取り戻そうと数年前から地元有志が自
発的に活動している団体で、「本町における旧東海道と本陣・脇本陣」と題する講演会とそれに合わせた
「本陣等で振る舞われていた料理」を再現し、それをつまみに日本酒を飲み交わしながら本町のまちづ
くりを語り合う会を開催するなどユニークな活動を続けています。
ところで私は月に何度となく電車に乗って他都市へ足を運んでいますが他都市と相対化するまでもな
く沼津の衰退は目を覆いたくなるほど顕著です。沼津の中心市街地では古くから営む事業所(商店)が
毎年のように一軒また一軒と閉鎖し、今後も閉鎖の危機に晒されている事業所がいくつもある深刻な状
況であることは明らかで、私たち市民にできることは何かを真剣に考えなくてはならないという思いか
ら、海外の都市を視察した経験を交え、沼津の復活の可能性について述べてみることにしました。
○歴史的考察
沼津市の発展の中心となってきた本町は江戸時代、本陣・脇本陣を中心に大小多くの旅籠が連なり、
交通の要衝として賑わっていました。現在の本町(旧上本町)から下本町に掛けての南北を貫く通りは
道幅が4間半もあり、当時の東海道の一般的な道幅を大きく上回るメインストリートでした。旧東海道
の要衝であったことは確かでしょう。更に、沼津城を中心にした城下町としての性格も併せ持ち、それ
に伴って、本町界隈は旅籠のほか商店、畳・建具・桶などの職人、料亭などの遊興関係の産業が栄えて
いました。言わば生活密着型の産業が張り付いていたと捉えることができます。この流れは明治期に入
ってからも引き継がれ、とりわけ明治 22 年に鉄道が開通してからは、島郷に御用邸が造営されたことで
風光明媚な景観が全国的に注目される中、沼津の賑わいは一段と活力あるものとなりました。更に狩野
川の河岸港としての活用は海上交通の要衝として伊豆などの沿岸部と内陸部との橋渡しで物流の拠点と
なっていたほか、右岸の御成橋下流に設置された魚市場は本町界隈に多くの恵みをもたらしていました。
その頃の沼津市の様子を象徴する文章をいくつか紹介します。
・明治 I0 年の静岡新聞発行の小冊子による商店の紹介記事には、静岡 27 店、清水 7 店、吉原 11 店
など、静岡~沼津間にある 116 店の店名があがっているが、沼津は最多の 44 店の名があがってお
り、商業が盛んだったことがうかがえる。
・駿東郡沼津町誌は 「明治弐十弐年鉄道開通以後ノ沼津ハ、東駿ノ沼津ニアラズシテ、一躍東海ノ
沼津ト化シ、東京横浜ハ恰モ隣家ノ如ク、静岡名古屋ハ軒先ノ感アリ。東西ノ貨物ココ二集産シ、
伊豆ノ咽喉ヲヤクシテ、駿河湾ノ利権ハ掌中ノモノノ如シ」と述べています。