Pollen and human
- 3. 約9万年間の植生変遷資料・人間活動の形跡
0 50 100 150 200
旧石器
縄文草創期
縄文早期
縄文前期
縄文中期
縄文後期
縄文晩期
弥生
古墳
奈良
平安
中世
近世
遺跡数0~499(m)
500~999(m)
1000~1499(m)
←逆谷地湿原
歴史年代別標高別遺跡数調査地概要
(長野県史)
- 17. 考古資料から考察
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旧石器
縄文草創期
縄文早期
縄文前期
縄文中期
縄文後期
縄文晩期
弥生
古墳
奈良
平安
中世
近世
遺跡数0~499(m)
500~999(m)
1000~1499(m)
歴史年代別標高別遺跡数
旧石器時代遺跡分布図
Editor's Notes
- 後氷期の長野市逆谷地湿原における植生変遷と人間の活動について、
森林環境学研究室の林が発表させて頂きます。
- 後氷期では、気候の温暖化や人間活動の影響を受け、植生が変遷してきました。
植生変遷を知る手がかりは、湿原堆積物中の花粉化石です。
形状から同定が可能、化学的・物理的な強度から長期保存が可能です。
散布量の差から、広域の植生と周囲の植生とに分けて考察することが出来ます。
こうした特性を活かし、本研究では「各植物の出現率」と「現生での生育環境」から、「過去の植生と環境」を探る花粉分析を用います。
- 本研究での調査地域である、北信地域は約9万年間の植生変遷データを持つ野尻湖や、戸隠鏡池での既往研究もあり、花粉分析が進んだ地域といえます。
野尻湖と戸隠の中間の標高934mに位置する逆谷地湿原は、市街地から至近であることから人間活動の痕跡も多く
歴史年代別標高別の遺跡数を比べると、縄文時代では中期をピークに遺跡数が増減しているのが特徴で、逆谷地湿原が位置する標高500~1000mの遺跡数は多くの年代で最多となっています。
す。
以上から逆谷地湿原は、植生変遷と人間の活動を考察するのに適しているといえます。
- 本研究では逆谷地湿原の花粉分析結果を基本に、野尻湖や戸隠の分析結果との比較から広域の植生変遷を、考古資料から人間活動の影響が及ぶ湿原周囲の植生変遷を、それぞれ考察することで、
後氷期の逆谷地湿原の花粉分析から、植生変遷と人間の活動を解明することを目的とします。
- 面積約4haの逆谷地湿原は、約60haを集水域とした流入河川の無い、ミズゴケ湿原です。
気候は冷温帯に属し、年降水量約1000mmの寡雨地帯です。
ボーリングコアは、2013年6月10日に地図中の赤点箇所にて、ハンドボーラーを使い、最深120センチメートルまで採取しました。
- 採取した堆積物の柱状図はこちらになります。
下から、泥炭、火山灰を含む砂質および粘土層、炭化した植物遺体を含む黒い泥炭、現生植物の根を混じる泥炭となります。
放射性炭素年代測定から黒い泥炭層の上部が約500年前、底部が約4800年前となりました。
1999年の富樫の調査と比較すると、深さ70cm周辺で約3500年分、堆積が欠損していることがわかりました。
また、下層の泥炭は約15700年前に堆積したものと見られます。
- 採取した堆積物から、植物遺体、鉱物質、有機物を除去し、花粉化石のみ抽出するため、以下の化学処理にかけました。
- 検鏡は、プレパラートを水平方向に行い、接眼レンズ内のメッシュ下端以下のものを除き、
風媒木本花粉が250個以上になるように、均質に同定・計数を行いました。
その風媒木本花粉の合計値から、局地的な影響のあるハンノキと、誤同定の恐れのあるカラマツを除いた値を基数として、
各植物種の出現率を算出しました。
- 検鏡は、プレパラートを水平方向に行い、接眼レンズ内のメッシュ下端以下のものを除き、
風媒木本花粉が250個以上になるように、均質に同定・計数を行いました。
その風媒木本花粉の合計値から、局地的な影響のあるハンノキと、誤同定の恐れのあるカラマツを除いた値を基数として、
各植物種の出現率を算出しました。
- 花粉分析結果です。出現率を元に、広域の植生変遷を示す風媒木本花粉図と、周囲の植生変遷も含む全出現花粉図を作成しました。
そして、各花粉の出現率の変化と堆積層序より、下からSi-1a,b、Si-2、Si-3と花粉帯を区分しました。
まず、広域に多量に散布する、風媒木本花粉では、Si-1はカバノキ、モミ、ツガ、トウヒ、ゴヨウマツの亜寒帯性樹種が優占。
Si-2ではコナラ亜属を主として温帯性広葉樹が優占し、気候が温暖になったことがわかります。Si-3ではスギ・アカマツが増加し、温帯性針葉樹優占の時代となっています。
湿原周囲の植生変遷も含めた全出現花粉分布図では、Si-2において草本花粉・シダ胞子が圧倒的に優占するのが特徴的であり、森林破壊の指標となるアカマツの微増から当時の森林の減少および周囲の草原化が考えられます。
全体的には、Si-1からSi-2での植生の変化が急激であることが特徴であり、堆積物の欠損が原因と考えられます。
以上の結果より後氷期の逆谷地湿原における植生変遷をつかむことが出来ました。
- 広域の植生変遷において、垣地が2012年に行った戸隠と野尻湖の花粉分析の比較結果と考察しました。
植生が寒冷なものから温暖なものへと変遷する指標として、亜寒帯性樹種の出現率合計値を温帯性樹種の出現率合計値で割った、SA/T値を用いました。
SA/T値が1以上は寒冷で、1未満は温暖であることを示し、SA/T値が1は温帯性樹種優占へ森林帯が移行した年代をしめします。
標高の高い順に、戸隠、逆谷地、野尻湖とグラフをならべました。
点線で示したとおり、標高の高いほど森林帯の移行には年数がかかり、標高と同じ順に移行期が早まっていくことから、逆谷地湿原の推定移行年代は約11,000年前としました。
しかし、点線部分の堆積が欠損しており、移行年代は特定できませんでした。
- 広域の植生変遷において、垣地が2012年に行った戸隠と野尻湖の花粉分析の比較結果と考察しました。
植生が寒冷なものから温暖なものへと変遷する指標として、亜寒帯性樹種の出現率合計値を温帯性樹種の出現率合計値で割った、SA/T値を用いました。
SA/T値が1以上は寒冷で、1未満は温暖であることを示し、SA/T値が1は温帯性樹種優占へ森林帯が移行した年代をしめします。
標高の高い順に、戸隠、逆谷地、野尻湖とグラフをならべました。
点線で示したとおり、標高の高いほど森林帯の移行には年数がかかり、標高と同じ順に移行期が早まっていくことから、逆谷地湿原の推定移行年代は約11,000年前としました。
しかし、点線部分の堆積が欠損しており、移行年代は特定できませんでした。
- 広域の植生変遷において、垣地が2012年に行った戸隠と野尻湖の花粉分析の比較結果と考察しました。
植生が寒冷なものから温暖なものへと変遷する指標として、亜寒帯性樹種の出現率合計値を温帯性樹種の出現率合計値で割った、SA/T値を用いました。
SA/T値が1以上は寒冷で、1未満は温暖であることを示し、SA/T値が1は温帯性樹種優占へ森林帯が移行した年代をしめします。
標高の高い順に、戸隠、逆谷地、野尻湖とグラフをならべました。
点線で示したとおり、標高の高いほど森林帯の移行には年数がかかり、標高と同じ順に移行期が早まっていくことから、逆谷地湿原の推定移行年代は約11,000年前としました。
しかし、点線部分の堆積が欠損しており、移行年代は特定できませんでした。
- 湿原周囲での人間活動を調べるため、考古資料から考察します。
逆谷地湿原の南縁に位置する、さかやち遺跡から縄文中期の落とし穴遺構が発掘されました。
縄文中期は縄文時代で最も遺跡数が多く人間活動が活発であった時代であり、逆谷地湿原は見通しの良い水場という最適な狩猟地であった可能性があります。
次に、1800年代の飯縄山の植生について調べました。
江戸末期の善光寺道名所図会での飯縄山南面の山肌には樹木の描写がありませんでした。
しかし、明治初期の長野縣町村誌の逆谷地湿原が属する北郷村の記述では、飯縄山の南東面は官有林に属し、樹木鬱葱とあり、
燃料などで森林の過利用の時代でありましたが、利用の制限により森林が残存していたことがわかります。
なお、スギ・アカマツが増加したSi-3における堆積速度38.83mm/100年より、スギ・アカマツの増加したのは江戸時代以降と考えられます。
- 湿原周囲での人間活動を調べるため、考古資料から考察します。
逆谷地湿原の南縁に位置する、さかやち遺跡から縄文中期の落とし穴遺構が発掘されました。
縄文中期は縄文時代で最も遺跡数が多く人間活動が活発であった時代であり、逆谷地湿原は見通しの良い水場という最適な狩猟地であった可能性があります。
次に、1800年代の飯縄山の植生について調べました。
江戸末期の善光寺道名所図会での飯縄山南面の山肌には樹木の描写がありませんでした。
しかし、明治初期の長野縣町村誌の逆谷地湿原が属する北郷村の記述では、飯縄山の南東面は官有林に属し、樹木鬱葱とあり、
燃料などで森林の過利用の時代でありましたが、利用の制限により森林が残存していたことがわかります。
なお、スギ・アカマツが増加したSi-3における堆積速度38.83mm/100年より、スギ・アカマツの増加したのは江戸時代以降と考えられます。
- 湿原周囲での人間活動を調べるため、考古資料から考察します。
逆谷地湿原の南縁に位置する、さかやち遺跡から縄文中期の落とし穴遺構が発掘されました。
縄文中期は縄文時代で最も遺跡数が多く人間活動が活発であった時代であり、逆谷地湿原は見通しの良い水場という最適な狩猟地であった可能性があります。
次に、1800年代の飯縄山の植生について調べました。
江戸末期の善光寺道名所図会での飯縄山南面の山肌には樹木の描写がありませんでした。
しかし、明治初期の長野縣町村誌の逆谷地湿原が属する北郷村の記述では、飯縄山の南東面は官有林に属し、樹木鬱葱とあり、
燃料などで森林の過利用の時代でありましたが、利用の制限により森林が残存していたことがわかります。
なお、スギ・アカマツが増加したSi-3における堆積速度38.83mm/100年より、スギ・アカマツの増加したのは江戸時代以降と考えられます。
- まとめです。
広域の植生変遷では、亜寒帯樹種から温帯性樹種へ植生が変遷し、気候が温暖になったことがわかりました。
しかし、堆積の欠損から急激な植生の変化があり、正確な森林帯移行の年代を掴むことは出来ませんでした。
堆積の欠損以降において、逆谷地湿原周辺の植生変遷に加え、人間が逆谷地湿原周辺を利用した痕跡を調べると
縄文中期に狩猟地として利用されていた可能性があり、
その後の火入れによる森林破壊、江戸時代末期からは制限ある森林利用があったことがわかりました。
以上より後氷期の逆谷地湿原における植生変遷と人間の活動の関係を解明できました。
そして、北信地域での花粉分析学的研究に寄与する事が出来ました。