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デザインの深い森
Vol.3 ウロボロスの洞窟と光の魔術師
ロフトワークの棚橋です。イノベーションメーカーという肩書きで、クライアントの商品&サービス開発の支援をしています。
1
第1回「魔王のテーブルのうえで」
「分かる」ことと「デザイン」の関係
前回の僕の担当会では「魔王のテーブルのうえで」と題して、「分かる」ということとデザインの関係を、17世紀を中心とし
た西洋美術史や文化史の変遷を通じて考えてみました。「分かる」ためのデザインだけでなく、デザイン的な操作自体によっ
て「わかる」内容そのものを創り出してきた歴史について。
2
解剖学遠近法
ディエゴ・ベラスケス『ラス・メニーナス』(1656)
アンドレアス・ヴェサリウス『人体の構造』(1543)より
たとえば遠近法や解剖学による視覚的イリュージョンが人々のものの見方に大きな変化を与えたことを話しました。解剖学に
関しては、当時のマクロコスモスとミクロコスモスは同じように神の似姿を元にしたものだという考えから、人の内部を知る
ことで、世界そのものを知ることができると考えられていたという話も紹介しました。
3
驚異の部屋 百科全書
オレ・ウォルムの「驚異の部屋」
イーフレイム・チェンバーズ『サイクロペディア』(1728)
あるいは、驚異の部屋や百科全書を中心とした博物学の流行についても話しました。
航海術や天文学の進歩で、世界が水平にも、垂直にも広がり、いままで見たこともないものが目の前にあらわれた時代でした。
!
その博物学の流行が…
4
博物館
美術館
大英博物館(1753年設立)
ルーブル美術館フロアマップ
やがては博物館や美術館を生んだという話。
そこでの作品などの展示物の並べ方そのものを通じて、その配列が示す意味そのものが美術史そのものを生みだしたことも紹
介しています。
5
分類学 百貨店
カール・フォン・リンネ『Systema Naturae』(1735) 1887年のボン・マルシェ
さらにはそうした物の配列が生みだす物語や意味から、分類学や百貨店が生まれていている話も。
テーブル(表)にデータを並べる操作により、リンネにはじまる近代分類学という科学的な物の見方が生まれたり、同じく品
物をあるルールに基づき陳列することで、万国博覧会や百貨店という物の価値=意味を提示するための方法の創出にもつながっ
たという話です。
6
デザインという思考の形が
人々の頭を支配しはじめる。
17世紀中頃
そんな風に収集物をレイアウトすることで意味=価値を生みだす視覚的イリュージョン。
その技法を駆使して、世界の見方を整え、理解を促そうという思考のあり方、つまりデザインという思考のあり方が浸透しは
じめた大きな変化のはじまりが17世紀中頃だったということを見たわけです。
7
集めて並べて組立てるという
新しい思考のカタチ
物あるいは視覚的な要素を集めて並べることで、新たな意味=価値を創出する新しい思考のカタチの誕生です。
その思考のスタイルはいまも僕らの思考のスタイルとして役立ち、かつ、思考の幅に制約を与えている。そんな話をしたのが9
月の第1回目でした。
8
「見る」ことと「思考する」こと
今回は、見るということと思考するということの関係にスポットライトをあててみたいと思います。
いま、スポットライトを当てると表現しました。僕らは思考の焦点を絞る際に、対象物に光を当ててより目立つようにすると
いうようなイメージからスポットライトの比喩を用います。つまり、より見えるようにすることで、より考えられるようにな
るという前提がそこにあるのではないでしょうか?
9
「照らす」ことと「知る」こと
また暗い闇のなかにまぎれたものに光を当てることで、隠れた真実を明るみに出す。そんな行為を「知」として捉えていない
でしょうか?
10
vol.2
ウロボロスの
洞窟と
光の魔術師
vol.2
ウロボロスの
洞窟と
光の魔術師
そんなことをテーマに、「ウロボロスの洞窟と光の魔術師」と題して、今宵もみなさんを「デザインという思考」の深い森の
なかに誘ってみようかと思います。長い話になるので、途中でインターバルも入れようと思っていますので、お付き合いくだ
さい。
11
レンブラント(1606-1669)『自画像』(1630)
そんなわけでまず登場するのは「光の魔術師」と称されたレンブラントです。
あるいは「光と闇の魔術師」とも呼ばれたレンブラントも、やはり17世紀半ばに活躍した人の1人です。
そして、オランダはアムステルダムという当時のヨーロッパで最も栄えた都市にいたことも今回の話を進めていくうえでは打っ
てつけの人物です。
12
レンブラント『アトリエの画家』(1628)
そのレンブラントは、1606年、スペインから独立する直前のオランダのライデンという街で生まれています。
この絵はライデンに住んでいた22歳のレンブラントが描いた小さな絵です。
ひび割れ、はげ落ちた漆 の壁。床板のざらざらした感じ、扉の金属部分の古びた様子、なぜか仕事場でめかしこんでいる画
家自身の青い衣装。単なるスケッチや練習のための絵というのには不自然なほど、様々な芸を凝らした絵。この絵を『レンブ
ラントの目』の著者サイモン・シャーマは客向けの売り込み用の名刺のようなものだっただろうと指摘しています。中央にあ
るのは実際の絵そのものとは不釣り合いな大きなパネル。つまり画中画ではないことがわかります。鏡の中の自分を描いた絵
ではなく、胸の中を描いた絵。
13
レンブラント『アトリエの画家』(1628)
insight
in-sightを描いた絵です。前回のマニエリスムの画家ツッカーリのディセーニョ・インテルノが思い浮かびますね。内的構図。
拡大してみましょう。拡大してわかるのは、画家の目が節穴のように描かれていることです。扉で紹介したエッチングはこの
2年後に制作されたものですが、しっかり目が描かれていました。この時代、絵を学ぶ際、一番最初に習わされたのは目を描
くことだったそうです。とうぜん、レンブラントもそこからはじめたはずですから、漆 や衣装をこれほどリアルに描けたレ
ンブラントがまともに目が描けなかったはずがないのです。つまり、節穴のように描いたのには理由があった。きっと内面を
描いた絵だから外の世界は見ていなかったのでしょうね。
14
レンブラント(1606-1669)『自画像』(1640)
そんなレンブラントは、3年後の1631年に、先にも言ったように当時ヨーロッパでも最も栄えた都市の1つであったアムステ
ルダムに移り住みます。この絵は、レンブラントがアムステルダムでもっとも評価されていた時期の自画像です。34歳くらい
ですね。
レンブラントは生涯数多くの自画像を描いてます。自画像を描いてくれという注文主はいないわけですから、それは先の「ア
トリエの画家」同様の宣伝用のポートフォリオであり、技法の実験の場でもありました。
1669年に亡くなるまでレンブラントはアムステルダムの黄金期を生き抜きます。まさにオランダ絵画黄金期を代表する画家で
す。では、すこしレンブラントの作品を見ていきましょう。
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レンブラント『テュルプ博士の解剖学講義』(1632)
アムステルダムに移って間もないレンブラントが描いた作品であり、レンブラントの名を一躍有名にした作品です。
前回のキーワードの1つであった「解剖」のモティーフがここにも登場しています。マクロコスモスとミクロコスモスは重な
る。ゆえに人体の中を知ることは世界を、宇宙を知ることにつながるということでしたね。あとでも述べますが、アムステル
ダムが栄えたのは1602年にオランダ東インド会社の本社が設立され、インドの香辛料をはじめとした貿易で巨大な富を生みだ
していたからでした。当然、富を生みだす貿易港には、世界中から見たこともない様々なものが集まります。それを集めた部
屋が驚異の部屋であり、レンブラントも自分の家に驚異の部屋をもっていました。世界中から珍品が集まるということは、そ
れだけ理解の外にあるもので周囲が満たされるということでもあります。つまり、アムステルダムは一番栄えた街であると同
時に、一番、未知=驚異に晒された都市でもあったわけです。とうぜん、未知が増えれば、知りたくなる。だから、解剖です。
!
死体の左手が解剖されています。解剖を描いた絵は当時他にもありましたが、このようにリアルに解剖された腕を描いた絵画
はなかったのです。
16
レンブラント『フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警)』(1642)
次の代表作といえるのが、通称「夜警」です。当時のレンブラントは、お金持ちの肖像画で好評を得ていました。そのレンブ
ラントに依頼されたのが、アムステルダム市民たち自身による自警団の群像を描く仕事でした。ほかの群像を描いた絵は記念
写真のように直立不動に近い人たちを描いたものでしたが、レンブラントが描いたのは市警団が行進する様子を描いた動きの
あるものでした。黒い服に赤い帯をたらした隊長と、金色の服をまとった副隊長のコントラストをはじめ、色や光の使い方が
レンブラントらしく見事です。
17
レンブラント『織物商組合の幹部たち』(1662)
そして、群像といえば晩年に近い時期に描いたこの絵。会議をしていたであろう人たちが、扉から入ってきた人物にいっせい
に目を向けているような図。前の2つの絵に比べると、光のコントラストが穏やかに、より自然な感じになっていますね。
このあたりがレンブラントの代表作といえる作品です。
18
ルーベンス『自画像』(1623)
そのレンブラントが強く意識していたのがルーベンスです。ルーベンスは、いまのオランダ南部からベルギー西部にあたるフ
ランドル地方の画家であり、スペイン王フェリペ4世にも仕えた外交官としても活躍しています。
レンブラントのパトロンであったコンスタンティン・ホイヘンスは、主人であるオランダ総督・オラニエ公フレデリック・ヘ
ンドリックのために、ルーベンスのような画家を欲していました。
ただし、カトリックのルーベンスではなく、プロテスタントのルーベンスといえるような画家を欲していて、その目にかなっ
たのがレンブラントでした。
19
レンブラント『柔らかい帽子と刺繍付きの外套をまとった自画像』(1631)
そんなホイヘンスの影響もあったでしょうし、画家としても外交官としても成功していたルーベンスに憧れを抱いたりもして
いたのでしょう。レンブラントは、ルーベンスの自画像を真似た構図をエッチングで何度も描いています。
20
カトリック VS プロテスタント
カトリックVSプロテスタント。それはこの時代を考える上では欠かせないキーワードです。
カトリックとプロテスタントの対立は、絵画をはじめとする視覚文化にも大きな影響を与えています。何より聖書を重視した
プロテスタントは、それ以外の神の表現=偶像を否定したのですから。
そして、その対立は、ルーベンスとレンブラントという2人の画家の作品の上にもみてとれます。というわけで、ルーベンス
とレンブラントの作品をすこし比較してみます。
21
ルーベンス『キリスト昇架』(1610-11)
まずはルーベンスの『キリスト昇架』というアントワープ大聖堂の祭壇画。「フランダースの犬」で主人公のネロが見てみた
いと願い、死の間際にようやくその願いがかなった2枚の祭壇画の1つがこの絵です。ネロもルーベンスに憧れ、画家になる
ことを夢見た少年でした。
十字架にかかるキリストの身体を、筋骨隆々の男たちが何人も力を出して、なんとか十字架を起こそうとしている絵です。文
字通り、キリストを十字架にかけるという重さがあらわれた絵です。
一方、同じテーマを描いたレンブラントの絵はどうか?
22
レンブラント『キリスト昇架』(1634)
十字架を持ち上げる重さは、ルーベンスの絵ほどは感じません。それどころか、十字架の上のキリストも貧相な身体として描
かれていて、神々しさは感じませんし、それを持ち上げる人々は光も当たらず、目立ちません。光が当たるのはキリスト自身
と、右足の下にいるベレー帽の男、さらにその後ろにたつターバンの男くらい。ルーベンスの絵のような劇的な印象からはほ
ど遠い絵です。そしてサイズ的にも小さなこの絵は大聖堂のような場ではなく、よりプライベートな空間に置かれる前提で描
かれています。
そして、先のベレー帽の男。これレンブラント自身なんですね。先にレンブラントは自画像の多い画家だといいましたが、自
分の作品に登場する頻度も、ヒッチコック並に多かったりします。
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ルーベンス『キリスト降架』(1611-14)
次に先の「昇架」と同じくアントワープ大聖堂の祭壇画の1つであるルーベンスの『キリスト降架』。こちらも見るからに劇
的な印象の絵ですね。白いキリストの身体とその下でキリストの身体を支える男の真っ赤な服。さらに右上では白髪の男がキ
リストの身体をつつむ白い布を歯を食いしばって噛んで支えています。絵の中でもっとも目立つキリストの身体がマニエリス
ム期の特徴である蛇状曲線となって、右上から左下へと視線をいざないます。
24
レンブラント『キリスト降架』(1634)
こちらもルーベンスの「降架」と比較すると、なんとも地味な印象のレンブラントの『キリスト降架』。ルーベンスの絵では
みんながキリストの身体に近づいて、その身体に触れていましたが、このレンブラントの絵ではまわりに傍観者が目立ちます。
そして、その分、空間自体の広がりを感じ、キリストの身体が小さくみえます。実際、ルーベンスの祭壇画と比較すると随分
小さな絵なのですが、空間の大きさはこちらのほうが大きくみえるのが不思議です。
キリストの十字架への昇架/降架という物語をかたや劇的に描いてみる人に印象づけるカトリックのルーベンスと、キリスト
の身体もごくごく普通の人の身体と同じように描き、その様子も必要以上に演劇性をもって描こうとはしないプロテスタント
のレンブラント。同じ画題で比べると、その違いがよくわかります。
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『キリスト降架』(1634)『キリスト昇架』(1634)
ところで、ルーベンスに比べると地味な印象のあるレンブラントのこの2つの絵。あらためてみてみて何か気づくことはあり
ますか?
「光と闇の魔術師」たるレンブラントらしく、画面上の明暗のコントラストがはっきりしています。
では、その光はどこから来ているでしょうか? そう。キリストの身体自体が光っているように見えるんですね。
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ルーベンス『キリスト昇架』(1610-11) 『キリスト降架』(1611-14)
その視点でみると、ルーベンスの先の2点の絵画でも同様です。
レンブラントほど、はっきりしたコントラストは見られませんが、キリスト自ら発光し、周囲を照らしだしています。辺りが
暗くなった状態を「降架」のほうが、より顕著にわかりますね。
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「30枚の銀貨を返すユダ」(1629)
レンブラントの他の絵もみてみましょう。
「30枚の銀貨を返すユダ」というテーマで描かれたこの絵で、床に落ちた銀貨以上に光が当たっているのは、左に座った男の
机の上に広げられた書物です。いや、この書物に関しては光が当たっているというより、自ら発光しているようにみえます。
つまり、それはこの書物が聖書だということです。
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レンブラント『ダナエ』(1636-37)
次のこれはレンブラントが初めて手がけた等身大ヌード画の「ダナエ」です。ダナエはギリシア神話に登場するアルゴスの王
女で、黄金に変身したゼウスに愛されて、英雄ペルセウスを生んだといわれる。直接は画面にあらわれない黄金のゼウスの光
でダナエの身体が光っています。
ちなみに、エルミタージュ美術館にあるこの絵は、1985年、後に精神疾患の診断が下されるリトアニア人の青年に硫酸を浴び
せかけられた上に刃物で切りつけられるという損害を受けています。青年はダナエに誘われて、犯行に及んだと話したと言わ
れています。
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(平面に)光を当てて見る
自ら発光する光に包まれる
光を通じて見る
つまり、この光こそが前回話した2種類の「見る」ための光のうちの1つなんです。
おさらいすると、まず1つ目が光をあててみる。
もう1つはみずから光る。
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光を通じて見る
スクリーン
ステンドグラス
前回は、前者がスクリーンへの投射、あるいは照明をあててモノを見えるようにすること。
後者がステンドグラスのように自ら発光することで存在をこちらへ投げかけてくるもの、と説明しました。
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光を通じて見る
スクリーン
キリストの身体
聖書
このステンドグラスに当たるのが、キリストの身体や聖書なんですね。
もうすこし、この発光するものについて考えてみたいと思います。
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パリのサン・シャペル
たとえば先にも例をだしたように、発光するものといえば、ステンドグラス。
上の写真はパリにあるゴシック建築の教会の1つサン・シャペル。
中世ゴシック期に建てられた教会の多くが、このような形で技術的にも広くとれるようになった開口部を使って、聖書の物語
を表現したステンドグラスを施しています。
こちらから見たいものに光を当てるとか、目を向けるという感覚ではなく、自ら光るステンドグラスからこちらを見つめて語
りかけてくる感覚。前回の話の1つのキーワードでもあった「遠近法」がその前提として決定してしまう主体と客体という関
係がここでは成り立ちません。
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パリのノートルダム大聖堂
こちらは同じくパリのノートルダム大聖堂のファサード。自ら光るステンドグラス同様に、ゴシック建築の特徴であるファ
サードを埋め尽くす彫刻も、文字が読めない人々にキリスト教の教えを伝えています。発光はしていなくても、その存在感は
あちらからこちらに語りかけてくるという意味では同じでしょう。
現代の建築物のフラットな壁面と比較すれば、その違いは歴然です。現代のフラットな壁は、何かを見てもらいたいときだけ、
そこにサインやポスターを啓示するというカタチで、主体の目を向けさせます。まさにスポットライトの代わりにサインやポ
スターを設置する発想。
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すべてが見える VS 見たいものだけ見る
つまり、その違いを対比すると、こんな風に表現できると思います。
現代のように主体が見たいものだけ見れるように、スポットライトを当て、見たい対象にフォーカスする見方。それに対して、
何が見たいかなどということは関係なく、とにかく向こうから存在感があるものが迫ってきて、すべてが見えてしまう場合の
見方。
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ランスのノートルダム大聖堂
もうすこし中世における表現のあり方をみていくと、パリのものよりひとまわり大きなランスの大聖堂もこのように彫刻に覆
われたファサードをしています。
前回、山崎先生の回で「彫刻的にみる」ことと「絵画的にみること」の対比が話題になりました。決まったフレームのなかの
決まった見え方をする絵画。それに対して、人とおなじ環境に存在する彫刻には1つの固定したフレームなどは存在せず、見
る位置、見る時間などによって、様々な顔をみせます。
ルネサンスをむかえる前までのヨーロッパ芸術の主流は、絵画よりもどちらかというと、そうした彫刻だったり、
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クリュニー中世美術館の展示風景
このクリュニー中世美術館の展示にも見られるようなタペスリーだったり、祭壇のような工芸品的なものだったりが主流でし
た。
そして、ステンドグラスや祭壇画、タペスリーなどの多くの芸術作品は、何より文字が読めない人々がキリスト教に触れられ
るようにと作られたものでした。
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これがあれを滅ぼすだろう。
書物が建物を。
ヴィクトル・ユゴー『ノートルダム・ド・パリ』
これはヴィクトル・ユゴー『ノートルダム・ド・パリ』のなかで、ノートルダムの司教がいう言葉です。
まさに中世において何よりキリスト教を伝える知の装置であった大聖堂が、グーテンベルクが発明した活版印刷の技術によっ
て入手しやすくなっていく書物によって、その役割を取って代わられたことを示した言葉です。
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『グーテンベルク聖書』(1455年印刷)
その印刷された書籍の誕生は、1445年のグーテンベルクの活版印刷技術の考案、実用化に ります。
そして、はじめて印刷された本が、42行聖書という名でも有名なグーテンベルク聖書でした。
やはり、最初に印刷の需要があったのは聖書でした。
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カトリック VS プロテスタント
そして、これこそが聖書を重視するプロテスタントたちによる宗教改革を可能にした最大の要因でしょう。つまり、書物は、
大聖堂の役割を奪っただけでなく、あらゆる偶像=視覚表現からその役割を奪取しはじめたわけです。
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カトリック VS プロテスタント
すべてが見える VS 見たいものだけ見る
ルーベンス VS レンブラント
このカトリックとプロテスタントの関係を、もう1つの対立として提示したすべてが見えることと見たいものだけ見るという
関係と、対置するとなかなか面白いと思っています。
あるいはルーベンスとレンブラントと。ルーベンスに比べ、明らかに、光と闇のコントラストで見るべきものとそうでないも
のの区別が明確になったレンブラントの絵。
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すべてが見える VS 見たいものだけ見る
すべて耳に入る VS 見たいものだけ見る
閉じられない耳 VS 閉じられる目
また、別の対比もできます。
情報を受け取る側にとって、その受け取りを拒否できないのは見ることより、聞くことでしょう。
まぶたを閉じたり顔をそむけたりすることで見ることは回避できますが、耳は閉じられないし、手でふさいでも音から完全に
は逃げられません。そして、何より音は聞くつもりがなくても聞こえてきます。
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閉じられない耳 VS 閉じられる目
音声 VS 文字
そして、ここまでくれば、この対比に気づくはずです。
音声と文字。口から発せられた次の瞬間には消えていく言葉と紙の表面に定着し続ける文字。
あるいは、大聖堂でのミサと聖書。集団でのミサ、個室での読書。音読と黙読。個室での黙読が、人の頭のなかという個室に
自分の声、自分の考えというものを作っていく。内面。
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僕は先日、XPD2014というイベントで「体験デザインの実践」というテーマで話をさせていただき、平面的ですべてが計画さ
れた旧来のデザインに対して、体験を重視したデザインでは、ユーザーではなく参加者、アウトプットではなく過程などが重
視されるようになっていると話ましたが、ある意味では読書から集団的なミサへの回帰かなとも思っています。
話を活版印刷に戻すと…
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グーテンベルクの時代から18世紀までのヨーロッパでの出版部数の推移
印刷術が発明されてすぐに本の出版量が劇的に増えたかというと、そうではありません。
このグラフをみたとおり、さすがに活版印刷が発明されたばかりの15世紀の半世紀ではそれほど出版部数は増えていません。
それが次の16世紀に2億冊。17世紀には5億冊強と2.5倍に、さらに次の18世紀にはその倍となって10億冊にも達します。
この数字もそうなんですが、もう1つ興味深い傾向があります。
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実際、活字による印刷がおこなわれるようになって、
最初の二世紀は、
新しい書物を読んだり書いたりしなければならない
という必要よりは、
古代および中世の書物を見たいという欲求のほうに、
むしろ動機があった。
!
1700年にいたるまで、
印刷された書物の50%以上が
古代あるいは中世の書物であった。
マーシャル・マクルーハン『メディア論』
マクルーハンのメディア論の一節です。
18世紀までは半数が過去の書物をただ印刷されたものであり、新たに執筆された書物はそう多くはなかったということです。
このことを先のグラフに重ねると、18世紀になっての飛躍的な発行部数の伸びは、本というものが過去の作品の複製という以
上に、新たな言説の表現手段として捉えられたときにこそ、実現したのだと考えることができるはずです。
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ディセーニョ・インテルノ
diségno interno
つまり、ディセーニョ・インテルノという概念が生まれる必要がある。そう、またしても内面。人々の頭のなかという個室で
黙読のように静かに読み上げられる思考。
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ディセーニョ・インテルノ
diségno interno
フェデリコ・ツッカーリ(1542-1609)
このディセーニョ・インテルノという概念は、マニエリスムの画家であり、理論家であるフェデリコ・ツッカーリが1607年に
「絵画、彫刻、建築のイデア」で提示した概念です。
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最初に〈わたしたちの精神にある綺想体〉
が生まれる、とツッカーリはいう。
これを要するに、ある〈イデア的概念〉、
ある〈内的構図〉Disengo Interno である。
かくしてつぎにわたしたちはこれを現実化
し、〈外的構図〉Disegno Esterno へともちこ
むことに成功する。(中略)
神は〈自然の〉事物を創造し、芸術家は〈人
工の〉事物を創造する。
グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』
ここで芸術家がはじめて人工の事物を創造するものとして位置づけられるのです。それ以前のルネサンス期においては、芸術
家は客体である自然をいかに模倣するかがテーマであったからです。
繰り返しますが、ツッカーリがこれを提示したのが1607年。この時期からようやく文学や思想、さらには科学も含めた各分野
で、過去や自然の模倣や注釈ではない、創造的な仕事が増えてくるのです。
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そして、もう1つの流れ…
この活版印刷術に端を発する「内面の発見」という流れとは別のもう1つの流れについても、見ていく必要があります。
といいつつ、…
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休憩 & フリーディスカッション
ここで一旦、休憩もかねて、質疑応答形式で、フリートークの時間を設けたいと思います。
トイレにいきたい方は、この時間で行ってみてくださいね。
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中世からルネサンスへ
では、もう1つの流れを考えるために、中世からルネサンスへという変化を見ていくことにします。
ここからさらに深い森に入っていくので、迷子になるのは必至です。
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ルネサンス
ルネサンスの中心都市であったフィレンツェ
14世紀以降、ルネサンスの中心地となったのは地中海貿易で繁栄した北イタリアの諸都市でした。特に大きな経済力をもって
いたフィレンツェがその中心です。
フィレンツェではダンテやペトラルカといった詩人が14世紀に活躍しています。
その後、15世紀には、1453年の東ローマ帝国滅亡の前後に、多くのギリシア人の知識人が亡命してきます。そのタイミング
で、それまでの西ヨーロッパには存在しなかった、古代ギリシアやローマの書物が彼ら知識人とともに流れ込んできます。後
で紹介しますが、このタイミングで持ち込まれたプラトンの著作を翻訳したマルシリオ・フィチーノが中心人物として活動し
たプラトン・アカデミーがあったのも、ここフィレンツェです。
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古典古代の復興
レオナルド・ダ・ヴィンチ「ウィトルウィウス的人体図」(1487年頃)
そうした古代ギリシアやローマの書物の再発見ともいうべき出来事が、1000年以上続いた長い中世では、忘れられていた古典
古代の復興という動きをもたらします。
この図は、有名なレオナルド・ダ・ヴィンチが古代ローマ時代の建築家ウィトルウィウスの『建築論』の記述をもとに描いた
ドローイングですが、
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古典古代の復興
レオン・バッティスタ・アルベルティ(1404-1472)「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサード」(1470年完成)
ほかにもサンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサードなどの作品でも知られる建築家のアルベルティが1451年にウィトル
ウィウスの『建築について』という本をもとにした「建築論」を完成させています。
このウィトルウィウスの『建築について』や、アルベルティの「建築論」は、その後のシェイクスピアの時代の英国マニエリ
スム期の思想家たちにも、強く影響を与えることになります。これはあとで詳しく話します。
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古典古代の復興
フィリッポ・ブルネレスキ(1377-1446)「サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ」(1434年完成)
ルネサンス期の建築家が、中世までの建築職人たちと異なるのは、古典古代の建築理論など教養と科学的知識によって合理的
な解決を行うことができるようになった点でした。サンタ・マリア・デル・フィオーレに大ドームをかけるという課題を解決
したブルネレスキは、前回も紹介したように、遠近法をはじめて幾何学的な手法で実証することに成功した人としても知られ
ています。
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埋もれていた古典古代の知識を掘り起こす
こうした観点で、ルネサンスは中世が長く忘れていた、古代ギリシャやローマの知を、概念的な意味でも、物理的な意味でも
掘り起こす活動だったといえます。
ここで物理的な意味でというのは、
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ドムス・アウレア(黄金宮殿)(64年)
このドムス・アウレアのように、イタリアには多くのローマの遺跡が地下に埋もれていたからです。ドムス・アウレアは64年
のローマ大火後にネロが建設した宮殿。15世紀のルネサンス期に地下から発見。地下はイタリア語でいうとグロッタ。
内部には、人、動物、植物などを題材とした装飾的なフレスコ壁画があって、これがグロテスク模様と呼ばれます。1480年代
からトンネルを掘って内部に侵入する試みが始まって、1490年代には、画家たちが地下歩廊から各部屋の装飾を見学するよう
になったと言われています。
58
ラファエロ・サンティ(1483-1520)「ヴァチカン宮殿のロッジア」
16世紀に、ラファエロがヴァティカン宮殿回廊の内装に取り入れるなど、マニエリスムの画家によってグロテスク模様は広が
りました。
59
ピッティ宮殿・ボーボリ庭園のグロッタ(1550-)
また、この洞窟=グロッタは、別の形でもルネサンス文化に影響を与えます。
1469年∼1549年にかけて造られたフィレンツェにあるメディチ家の宮殿でピッティ宮殿というものがあります。この写真は、
その宮殿の敷地の中にあるボーボリ庭園も一角です。1550年にはじまった大規模な庭園の拡張工事によって造られました。
60
ピッティ宮殿・ボーボリ庭園のグロッタ内部(1550-)
内部は上のように鍾乳洞を思わせる造形が人工的にセメント等で造られています。人工的に、始源の楽園・普遍宇宙のモデル
を造り、手中におさめようとする試みです。
61
ウロボロス
普遍宇宙を手中におさめる。まさにウロボロスを手中におさめるイメージ。ウロボロスの洞窟です。
ウロボロスは、古代後期のアレクサンドリアなどヘレニズム文化圏においては、1なるものからすべてが生まれるという世界
創造の思想や、完全性、世界の霊などを表した。
62
ネオプラトニズム
まさに、この「1なるものからすべてが生まれる」という思想が、ルネサンス期にこれまた古代からの復活を遂げたネオプラ
トニズムの思想の根幹をなすものです。ネオプラトニズムは文字通り、プラトンのイデア論を継承した思想で、紀元3世紀頃
にプロティノスによって展開されたものです。万物は一者から流出したものと捉える流出説を軸とするもので、初期キリスト
教にも影響を与えたと言われています。この一者がプラトンのイデアから派生したものですね。元のプラトンの思想とはまっ
たく異なるものになっているのですが、
63
ネオプラトニズム
コジモ・デ・メディチ(1389-1464)
先にも述べたとおり、プラトンの思想は長く西ヨーロッパでは忘れられていて、東ローマ帝国の滅亡とともに再度西ヨーロッ
パにもたされたものです。その流れをつくった人物がメディチ家の当主コジモです。1439年のフィレンツェ公会議の際、東
ローマ帝国の哲学者が行ったプラトン講義をきっかけにプラトン哲学に関心をもったのがきっかけでした。
64
ネオプラトニズム
マルシリオ・フィチーノ
(1433-1499)
ピコ・デラ・ミランドラ
(1463-1494)
現在は病院の一部となっている元プラトン・アカデミーの建物
コジモは1462年頃にフィレンツェ郊外にプラトン・アカデミーを創設して、古代のアカデミアに憧れる人文学者たちを集めま
した。東ローマ帝国から写本を入手し、1463年にネオプラトニズムの影響を強く受けたエジプトの文書「ヘルメス文書」を、
1469年にプラトン全集を、
アカデミーの中心人物であったマルシリオ・フィチーノに翻訳させています。
このフィッチーノと弟子ともいえるピコ・デラ・ミランドラがルネサンス期の文化にネオプラトニズムを広めたのです。ちな
みに、ピコは非ユダヤ人ではじめてカバラを極めた人だと言われています。
65
ネオプラトニズム
ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)
ライムンドゥス・ルルス
(1232‒1315)
フィチーノやピコのネオプラトニズムやヘルメス主義を継いた人たちの1人にジョルダーノ・ブルーノがいます。ブルーノは、
それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張するなど、独自の宇宙論を展開。コペルニクスの地動説を擁護したた
め、異端判決を受け、火刑にされたルネサンス思想家です。
また、ブルーノは、ルネサンス期の記憶術の大成者としても知られます。スコラ哲学の解釈をくぐった古典的な記憶術に加え、
ヘルメス=カバラ主義や、13世紀のライムンドゥス・ルルスが考案したルルスの術を統合した形で新たな記憶術をまとめまし
た。
66
ネオプラトニズム
ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)
『アルス・マグナ・ウルティマ』
文字列を機械仕掛けで生成する
ルルスの術
ブルーノが考案した「記憶の輪」
そのルルスの術というのは、こんな円環状の機械仕掛けで文字列を生成するしかけです。
ブルーノもこれを元に、どんな単語でも言葉でも1つのイメージに置き換えることのできる独自の変換法「記憶の輪」を作り
出します。「万物は一者から流出する」というネオプラトニズムの思想を具現化した1つの装置です。
このブルーノの記憶の輪などは、後にはシェイクスピアのグローブ座設計の基盤になったりもします。
また、それだけでなく、このブルーノが大成した記憶術を中心に据えた魔術的哲学は、その後、近代を準備することとなる薔
薇十字団やフリーメーソン的活動の礎をつくることにもなっていきます。そして、薔薇十字団と少なからず関係のあったデカ
ルトやライプニッツなど、17世紀後半の哲学者たちの思想にも。
67
エルヴィン・パノフスキー
『イデア』
芸術家のみが規則の創造者なのであ
り、真の規則というものは、およそ
真の芸術家が存在するかぎりにおい
て、そしてその数だけ存在するとい
う、ほとんどカントを思わせるよう
なジョルダーノ・ブルーノの発言は、
イデア論と関係づけることによって
のみ十分に理解されるだろう。
先にも述べたとおり「創造する芸術家」という観念が生まれたのも、このブルーノの発言に端を発したものということができ
ます。
それまでは…
68
エルヴィン・パノフスキー
『イデア』
初期ルネサンスでは、主観も客観も
超えた法則性が存在すると信じられ
ていた…
!
…その法則性は、いわばより高次の
秩序に属するものとして形象化の過
程を律しうるように思われていたが、
その法則性を無条件に認めることは、
自由に創意を凝らす芸術家の創造と
いう考え方とは根本的に矛盾するも
のであった。
この主観も客観も超えた法則性こそ、ネオプラトニズムにおける一者であるイデアなのですが、前期ルネサンスにおいては、
それが芸術家をあくまで自然の模倣を通じて、隠されたイデアを表出するものに留めていたのです。それが「創造する者」と
しての芸術家、ツッカーリのいうディセーニョ・インテルノを見える形にアウトプットするものとしての観念に変わるのには、
後期ルネサンスであるマニエリスム期を待つ必要がありました。
69
ネオプラトニズム
ジュゼッペ・アルチンボルド「ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世」
ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)
また、ブルーノは、ナポリに生まれましたが、異端の嫌疑から逃げるため、各地を放浪する人生を送っています。ローマ、ジュ
ネーブ、パリ、ロンドン、そして、ドイツのヴィッテンベルクを経て、プラハにも滞在しています。そう、あのルドルフ2世の
プラハです。このルドルフ2世も薔薇十字団などの運動が生まれる礎をつくった一人だといえます。ルドルフ2世も前回の登
場人物の1人でしたね。
70
ルドルフ2世のプラハ
ジュゼッペ・アルチンボルド
(1527-1593)
ティントレット
(1518-1594)
ヨハネス・ケプラー
(1571-1630)
ティコ・ブラーエ
(1546-1601)
ジョン・ディー
(1527-1608)
そのルドルフ2世の治世下のプラハには、
アルチンボルドやティントレットをはじめとする芸術家たち、
そして、ケプラーやティコ・ブラーエなどの天文学者、
さらには、ジョン・ディーのような錬金術師にして数学者のような人もいました。ディーは占星術師でもありましたが、占星
術師と天文学者がともにいるのもこの時代の特徴といえるでしょう。先の解剖学とは逆に宇宙をしることは、人間そのものを
知ることだったからです。天文学と占星術のあいだはいまほど境がありませんでした。
71
英国マニエリスムへの影響
ジョン・ディー(1527-1608)
『建築について』をアウグストゥスに披露するウィトルウィウス
(1684年制作の絵画)
錬金術師で、占星術師、そして、数学者でもあるジョン・ディーも、先の古代ローマの建築家ウィトルウィウスに強く影響を
うけた1人です。
ディーはユークリッドの『原論』の英訳にあたり、長い「序文」を寄せていますが、その「序文」はウィトルウィウスの『建
築について』に依拠したものです。
72
建築家は職人を集め、教え、指図して、手による仕
事や家屋、城郭、宮殿の実際的建築におもむかせ、
またそれを吟味する人である。
だが(かしらたる親方で建築家としての)彼自身に
は、線と面と立体を用い、幾何学、算術、光学、音
楽、占星術、宇宙誌、(つまりは)これまで導き出
されたあらゆる数学的諸技術や、その他の確認され
確立されうる他の自然的諸技術の技師として働きを
なす明らかな理由や根拠がやはり存在している。
ジョン・ディー「ユークリッド『原論』英語版への数学的序文における建築論」
これがその序文。
様々な数学技術を包括したものとして建築が捉えられ、それを学ぶにはウィトルウィウスが最適と考えたのです。
73
英国マニエリスムへの影響
ロバート・フラッド(1574-1637)
『両宇宙誌』(1617-1618)
『両宇宙誌』中で「記憶術」と名付けられた画像
そのディーの影響も受けたのが、ロバート・フラッドでした。ディーがエリザベス朝最大の魔術師だとすれば、フラッドは
ジェームズ朝最大の魔術師といえます。
フラッドは、その名の通りマクロコスモスとミクロコスモスとを扱った『両宇宙誌』という本を書いています。この本での宇
宙観をめぐって、フラッドはケプラーと論争を繰り広げています。ケプラーの宇宙論が数学的記述で書かれているのに対し、
フラッドのそれは数学的記述だけでなく、象形文字や図像を用いすぎる、つまり曖昧だとして論争になったのです。エジプト
の象形文字は当時イデアに通じる秘密のカギと考えられていたのです。
フラッドが影響を受けたのはディーの思想だけでなく、ブルーノのヘルメス=カバラ主義を取り入れた記憶術でした。そして、
このフラッドの思想こそがシェイクスピアのグローブ座のデザインに影響を与えたのです。
74
英国マニエリスムへの影響
イエイツによるグローブ座の舞台の復元スケッチ 復元されたグローブ座
「世界劇場」というディーやフラッドが登場する本を書いているフランセス・イエイツはその著書のなかでフラッドの思想を
もとにグローブ座の復元スケッチを描いています。
実際に1997年にグローブ座が復元される30年近く前の1969年の仕事です。
そのイエイツが指摘しているのは、このグローブ座がウィトルウィウスの建築理論に基づく聴覚的劇場であったのに対し、そ
の後はイニゴー・ジョーンズの発明であるプロセニアム・アーチと遠近法的書き割りの組み合わせに基づく視覚的劇場に移行
していくということです。
前回も指摘したとおり、エリザベス朝の演劇の舞台を取り囲む形で配された客席から観客が一体になって参加する劇場から、
75
イニゴー・ジョーンズ(1573-1652) Engraving published in Les Plaisirs de L'Isle (1673-74)
ジェームス朝の途中からは、観客が一方向から絵画的舞台を眺める形の劇場に。
大聖堂での集団によるミサと、聖書を個室にこもって黙読することに対応するような、参加型で体験的な演劇と、傍観者的に
鑑賞する演劇。この変化がまさに17世紀半ばを境に起こったのです。
76
英国マニエリスムへの影響
ジョン・ダン(1572-1631)ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)
そして、その変化に敏感に気づいていたのが、英国マニエリスム期を代表する2人の詩人、シェイクスピアであり、ジョン・
ダンでした。
77
ある新たな哲学が
    すべてのものを疑惑のうちにおとしめる。
 火の元素は消え果てた。
  太陽はいまやなく、
   そして大地も失せた。いかなるものの精神も
 いまはいずくを指呼すべきか
   正しく教えることを知らない。
すべてのものが破砕し、あらゆる関聯が、
あらゆる正しい秩序、あらゆる関係が崩壊した。
ジョン・ダン「この世の解剖(An Anatomy of the World)」(1611)
ダンはこんな詩を書いています。
新たな哲学により、それまでの秩序や関係の崩壊。
ただし、それは必ずしも思想や文化の変化によるものだけではありませんでした。
それは16世紀半ばから17世紀の半ばまでの1世紀のあいだ、ヨーロッパを襲ったよりリアルな危機の影響によるものでもあっ
たのです。
78
①ボヘミア・プファルツ戦争
 (1618年 - 1623年)
②デンマーク・ニーダーザクセン戦争
 (1625年 - 1629年)
③スウェーデン戦争
 (1630年 - 1635年)。
④⑤フランス・スウェーデン戦争
 (1635年 - 1648年)
30年戦争
(1618-1648)
オランダ独立戦争
(1568-1648)
それは30年戦争です。ボヘミアでのプロテスタントの反乱をきっかけに勃発。神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648
年に戦われた国際戦争。
そして、それに先んじて15世紀末に起こった、スペイン・ハプスブルク家の領土とされていたオランダの独立戦争。勃発した
のは1568年です。スペインがネーデルラント連邦共和国の独立を承認したのが30年戦争の終結でもある1648年。1609年から
12年間の休戦期間を含むものの、80年間もの長期にわたるオランダ独立戦争は80年戦争とも呼ばれます。
79
オランダ東インド会社
(Vereenigde Oostindische Compagnie)
ロゴ
オランダ東インド会社のアムステルダム旧本社
ただし、ネーデルラント17州のうち、アムステルダムのあるホラント州などの北部7州は1600年くらいにはネーデルラント連
邦共和国として実質的に独立を果たしていました。
1602年には世界初の株式会社といわれるオランダ東インド会社がアムステルダムに本社を置く形で設立。1602年から33年まで
のオランダ・ポルトガル戦争で香辛料貿易を奪取したことで、この貿易の富がアムステルダムの流入。17世紀のネーデルラン
ト共和国は黄金期を迎えることになるわけです。戦時中ではありつつ、戦火からはすこし離れて栄えた都市アムステルダム、
レンブラントがその都市で活躍したのはまさにこの時代だったわけです。
80
テオフィルス・シュヴァイクハルト「薔薇十字の目に見えない学院」(1618)
そして、戦火がヨーロッパを覆った時代に、まさに戦火の中心でもあったボスニアから出現したのが薔薇十字団でした。1614
年、神聖ローマ帝国のカッセルで刊行された著者不明の怪文書『全世界の普遍的かつ総体的改革』とその付録『友愛団の名声』
によって一気に全ヨーロッパで知られるようになった秘密結社。ただし、本当に存在したかは 。なので、この絵のように
「見えない学院」があるといった が流れもしたのです。
81
Adriaen van de Venne Friedrich V and Elizabeth Stuart Returning from the Hunt (1628)
この薔薇十字団の登場に大きな影響を与えたといわれるのが、1613年、イギリス国王ジェームズ1世の娘エリザベスと、神聖
ローマ帝国のファルツ選定侯フリードリヒ5世の結婚というトピックでした。
1619年、ボヘミアのプロテスタントの貴族たちは、カトリックの神聖ローマ皇帝フェルディナント2世を排除すべく、フリー
ドリヒ5世をボヘミア王に即位させます。ちょうど、そのボヘミアの首都プラハでケプラーが、ロバート・フラッドの著作に論
争をしかけていた頃です。
82
カトリック VS プロテスタント
まさに、この30年戦争は、今日の話の1つのキーであるカトリック対プロテスタントの戦争で、フリードリヒ5世はプロテス
タント側の象徴的存在として期待されました。しかし、その期待は長くはもたず、1620年11月の戦いでボヘミア貴族連合軍が
カトリック軍に敗北するとフリードリヒ5世のボヘミア王としての治世は終わります。わずか1年4ヶ月の治世でした。
この冬王と呼ばれたフリードリヒ5世に対する期待こそが薔薇十字団を生み、そして、その同じ王に対する絶望こそが薔薇十
字団の存在を のままにしたのだと、先のフランセス・イエイツが指摘しています。
83
テオフィルス・シュヴァイクハルト「薔薇十字の目に見えない学院」(1618)
ただし、その ゆえに、薔薇十字団はその後の思想や学門に大きな影響を与えます。先のロバート・フラッドをはじめ、デカ
ルトやニュートンなどの著名な哲学者、科学者。そのニュートンも後に加わることになる英国王立教会=ロイヤルアカデミー。
そして、新たな学門の形を提唱したフランシス・ベーコン、それから同じくボヘミア出身の教育革命者であるコメニウスに。
84
コメニウス(1592-1670)『世界図絵』(1658年)
そのなかのコメニウスに注目してみましょう。
ボヘミア出身のコメニウスは、1658年に出版した子供向けの教科書『世界図絵』もしくは『目に見える世界図絵』の著者とし
て知られています。この本は、子供向けのラテン語教科書で、子供を対象にした最初の絵本と考えられています。
85
コメニウス(1592-1670)
プロテスタントの家庭に生まれ、ボヘミアで司教をしていたコメニウスでしたが、1627年カトリックだけを国教とする法律が
公布されると、長い逃亡生活に入ることになります。まさに冬王の敗北の結果が、ここにも現れているわけです。
コメニウスは、ポーランドやイギリスなどを点々としながら、『世界図絵』が出版されることになる1658年の前年の1657年
にはアムステルダムに移住しています。またしてもアムステルダムですね。
86
コメニウス(1592-1670)『世界図絵』(1658年)
『世界図絵』は木版画によるイラストレーションとそれに添えられたテクストでの説明からなる150章からなり、内容は人間
とその活動(たとえば仕事)、宗教をはじめ、動物学や植物学を扱っています。
従来の教育書といえば、ラテン語で書かれた一部の人にしか読めないものでした。そうした教育に異を唱え、広く万人が享受
できる教育の形を模索したのが、このコメニウスであり、「知識は力なり」なりの名言を残したフランシス・ベーコンでし
た。
コメニウスは薔薇十字への失望と幻滅から、こうした新しい教育の形をつくる活動をしたとも言われています。
87
神を知るための「絵」から
人間的知のための「絵」へ
コメニウスが『世界図絵』を通じて行った、知へのアクセシビリティをあげることでした。そのために、プロテスタントが偶
像破壊の名目で神から切り離した図像を、現実的で人間的な知へと再接続しています。
88
ヤン・ダヴィス・デ・ヘーム (1606‒1683) 『静物』
宗教的なテーマから離れた絵画が、レンブラントが数多く描いた肖像画や上のよう静物画にテーマを移したのと同じ時期のこ
とです。
89
ピーテル・クラース (1597/1598-1660)『ヴァニタス』(1630)
知が宗教的なものから自由になり、絵も同じように伝統から切り離され、創造的になっていく。ダンが「あらゆる正しい秩序、
あらゆる関係が崩壊した」と歌った直後の世界で起こったことです。
90
絵が言葉に従属するものになっていく
ただし、絵が本当に自由になったかというと、おそらく、そうではありませんでした。コメニウスの「世界図絵」において、
絵が言葉で書かれた知を補助する挿絵的な役割となったように、絵が言葉に従属するものとなっていきます。
91
イーフレイム・チェンバーズ(1680-1740)『サイクロペディア』(1728)
その最たるものが、前回詳しく紹介したさまざまな百科全書でしょう。視覚表現があくまで言語的な論理の下に置かれるよう
になっていく。
92
英国王立教会
12代会長アイザック・ニュートン(1643-1727)初代会長ウィリアム・ブラウンカー(1620-1684)
その流れを押し進めたのが英国王立教会ロイヤルアカデミーでした。数学者や科学者から成る王立教会は、それまで科学とと
もにあった魔術、錬金術的なものを、科学的な知から排除しようとします。それが目に見えない学院といわれた薔薇十字と、
目にはっきりと見える形で組織された王立教会の違いでした。
93
英国王立教会
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)ジョン・ウィルキンズ(1614-1672)
曖昧さを嫌い、明晰性を追求した王立教会の活動を代表する人のひとりに数学者のジョン・ウィルキンズがいます。ウィルキ
ンズは1668年の著書『真性の文字と哲学的言語にむけての試論』のなかで、言葉の曖昧さをなくすための普遍言語の提案を
行っています。
この普遍言語はまさに海をはさんだ大陸の側でライプニッツが生みだした二進法表記と同様、バイナリーの組み合わせによる
ものでした。曖昧さをなくし、言語の壁を越えるという意味ではコメニウスの絵が目指したものと同じだと言えます。つまり、
王立協会が目指したユニバーサル言語は、曖昧さをなくし、万人が同じ知を得るための知的ツールだったのです。
94
曖昧さが抹殺される
そうして、曖昧さが次々と抹殺されていきます。
そうした動きのなかで、プロテスタントからなる王立協会が目の敵にしたのは、シェイクスピアに代表される市民演劇でした。
1642年9月2日、すべての劇場が閉鎖を命じられ、上演者は投獄するという政令が発布されます。耳の劇場の終焉です。
その後、しばらく抹殺されたシェイクスピア演劇は、印刷された活字として再登場することになります。
95
アイ・アム・トゥー・マッチ・イン・ザ・サン
しかし、活字になったシェイクスピアは以前とは別物でした。
耳で聞いていた時代、多義的であり、息子なのか、太陽なのか曖昧だったサンという言葉も、印刷された言葉になった瞬間、
その意味が固定されることになります。
96
すべてが見える VS 見たいものだけ見る
すべてが見えるか、見たいものだけが見えるのか。
97
多義 VS 一義
あるいは、多義を許容するか、明晰さにこだわって一義化するか。
その転換が行われたのが、まさにこの17世紀の半ばという時代だったということです。それには先に述べたような活版印刷の
影響もあれば、ネオプラトニズムから薔薇十字を経て、その反動として魔術的なものや曖昧さを嫌った王立協会やユニバーサ
ル言語などの影響も重なります。
そして、時代は啓蒙の時代へ。
98
蒙きを啓く
くら ひら
EnlightenmentEnlightenment
くらきをひらく啓蒙の時代、プロテスタント的な明晰なロゴスの勝利により、あいまいさは排除され、視覚は言語に従属する
ものとして1つのフレームに固定されたものとなり、
光=スポットライトは主体の側が選んで対象にあてるものとなります。何を見て、何を見ないようにするかを取捨選択するこ
とで、世界を抽象化し、明瞭な意味を生みだすデザイン的思考。
99
レンブラント『アトリエの画家』(1628)
insight
そのとき、目は世界そのものを見るよりも、内面の論理を見つめ、
!
そこで見たものを逆に世界に向けて投射するようになります。
100
1即多
さて、僕の話も終わりに近づいてきました。そこで現代に目を移します。
先日、僕はグラフィックデザイナーの杉浦康平さんの講演を聴きにいってきました。そこで杉浦さんは、仕事の大部分を占め
る書籍の装丁の話を、本というメディアがもつ「1即多」という性質をキーワードに話をしてくれました。本は1つでありな
がら、中に、多であるページ、多である言葉、多である物語を詰め込んでメディアでもあるという話。そして、本はその1と
多を「即」=すなわち、たちまちに結ぶという話をしてくれました。
101
難読視
素敵じゃないですか
その講演の質疑応答でひとりの方が、アナログの本とこれからのデジタルな本で、1即多という関係はどう変わりますか?と
いう質問をされていました。
その方は難読視の傾向があるらしく、紙の本だと文字がぼやけて読みにくいけど、デジタルだと調整できるので読めるという
話をしたんです。それに対して、杉浦さんが言ったのが、上の言葉。ものがあやふやにしか見えないことが素晴らしいと杉浦
さんは言うんですね。これを聞いて僕はハッとしたんです、まさに多義と一義、あいまいさと明晰さの話だなと。
102
ごちゃごちゃに見える赤ちゃんの視野
ごちゃごちゃから意味を見出す楽しさ
赤ちゃんのころの視野はものがはっきり見えず、それこそ自己と他者の境もわからないような状態です。80歳を過ぎた杉浦さ
んも視力が落ちてきて、世界がごちゃごちゃに見えるようになってきているそうですが、その中から意味を見出すことが楽し
いと言います。絵画のようにフレームを固定し意味を固定する見方に対して、彫刻をみるように多義的にいろんな意味を発見
していく見方に重なる話だと思います。
103
開いた手/閉じた手
杉浦さんはまた、鈴木大拙さんの「現代は開いた手のようだ」という話をしてくれました。デジタルという言葉は指という言
葉を元にしていると聞いたことがありますが、鈴木大切さんが現代は開いた手のようというのは、各専門分野がそれぞれ伸び
ていく一方で、それらがバラバラの状態になっていることの指摘でした。多がバラバラにある状態。でも、手はパッと閉じら
れるだろうと。多を即、1にもできる。そんな1即多が、アジアや日本のデザインには見られる、そんな話をしてくれまし
た。
104
杉浦康平デザイン『全宇宙誌』(1979)
これは杉浦さんがデザインした『全宇宙誌』という本です。いまは絶版になっているので入手困難ですが、僕も一度手にした
ことがあります。
正直、読みやすい本ではないんですが、こういうデザインもあっていいなと思います。すくなくとも視覚表現が文字に従属し
ていないのが好きです。見たいものだけ見えるわけじゃなく、見ようとしないものまで目に入ってくる存在感。わかりやすさ
とか、明晰さとかばかりではなく、こういうデザインの方向性がもっと増えていいなと思うんです。そんなことを今日の僕の
話から感じてもらえれば幸いです。
と、このへんで今日の話は終わりにしたいと思います。ありがとうございました。
105

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